流し読み

俺にまつわるエトセトラ

カレーライス地獄

先日の夕方、自宅でカレーライスを作っていた。一人暮らしなので、カレーのルーさえ沢山作ってしまえば、その後しばらくは料理の面倒臭さからは解放されることになる。代わりに2日ほど朝晩カレーが続くが……。何より、やはりレトルトではなく自分で作ったカレーの美味さは格別である。

この日も、俺は鼻歌でBruno Marsの「Runaway Baby」を歌いつつ、気分良くジャガイモ、人参、玉ねぎを刻み、ニンニクをすりおろし、圧力鍋に具材をぶちこんでトマトジュースと水で煮込んでいた。圧力鍋は文明の利器だ。こんなに便利なものがあったのなら、もっと早く手に入れておけばよかったと常々感じる。蓋の圧力メーターのフチが緑になるまで加熱したら弱火で15分、あとは火を消して放っておけば具材はキッチリ煮込まれているという寸法だ。

圧力メーターが下がったのを確認し、ワクワクしながら蓋を開ける。ジャガイモも人参も、火がしっかり通っており、かつ崩れてはいない上々の仕上がりだ。あとはルーを入れて溶かすだけ。

 

しかし、ここで問題が発生する。

 

一体、この量の具材と煮汁にはどの程度のルーを溶かすのが正解なのか。今日は作り置きを意図して、普段よりもだいぶ多めに作っている。となると、適切なルーの量はどうなる……?視界良好だと思っていたカレー作りに、俄に暗雲が立ち込める。

とりあえず、普段は固形ルーを2つ入れるから増やして3つにしてみる。10分ほどで溶け、いつも通りの芳しいスパイスの香りが……しない。何か匂いが水っぽいぞ?

味見をする。嫌な予感で小皿が震えるが、覚悟を決めて一息にいただく。

匂いに感じた違和感は的中!味が薄い、とにかく水っぽい。いわゆるシャバシャバのカレーである。どうやらルーが足りないようだ。

原因が分かれば、あとは解決策を練り、実行するだけだ。追加のルーをとりあえず1つ投入。料理にこういう味の薄さ問題が起きた時、肝心なのは少しずつ味を濃くし、味見を何度もすることだ。一気に濃くすると今度は高血圧が気になるレベルのしょっぱさを招くこともある。慎重に、丁寧に、美味しく食べてくれる人の顔を思い浮かべて……って食べるの俺だけじゃねえか。

とにかく、1つ足してみたところ、味は満足のゆくものになった。しかし、まだ解決していない問題があったのだ。

 

あれ?まだ水っぽくないか?

 

そう、まだルーがシャバシャバの水っぽい仕上がりなのだ。俺はカレールーはドロドロ派なのだ、水っぽいカレールーなど言語道断、受け入れることは到底不可能である。

そこで、流しの下から取り出したのは小麦粉である。こいつを混ぜればドロドロになると以前料理本で読んだのだ。最近の料理本は、様々なコンセプトのものが揃っていて、読んでるだけでも大変楽しい。今度は煮物の本を買おう。

話が脱線した。小麦粉をちょっとずつ混ぜ、ドロドロのルーを仕上げていく。確かにとろみがついてきたようだ。カレー独特のツンと鼻腔を突く香りが何ともかぐわしい。充分に溶かしたところで、出来上がりだ。

食べてみると、少し粉っぽいもののうまい。充分食える味である。俺は腹を満たし、残りのカレールーの入った鍋には蓋をして、ぐっすり眠った。

 

翌朝起きて、カレーを食べるためにルーを暖める。グツグツ言い出したら、ご飯とルーをよそい、いただきます。ん?

 

めちゃくちゃ粉っぽい。

 

原因はよく分からないが、見たところどうやら、一晩寝かせたら小麦粉が浮いてきてしまったらしい。ふざけた話である。こっちはただドロドロの美味いカレーが食いたいだけなのに何ということだ。しかも思い出してみると、今回は作り置きを考えてかなり多めに作ったはず。ということは……。

恐る恐る鍋を見る。案の定、そこにはまだまだ沢山の粉っぽいカレールーが鎮座していた。アメリカ人なら、こういうときOh my Godと叫ぶのだろう。お陰で英会話の用法例を一つ覚えられた訳だ。浮いてきやがった小麦粉には、感謝の念を禁じ得ない。

こうして美味しく食べるはずのカレーを無駄に粉っぽくしてしまい、おまけに多めに作ったために、しばらく粉っぽいカレー地獄に苦しむ破目になった、馬鹿な男がいたというお話。それではまた。

冬の空

今年の三月に大学を卒業し、その後紆余曲折の末に社会人の端くれになった。平日は毎朝スーツを着て電車に乗り、会社の最寄り駅まで揺られる。幸い職場の雰囲気や労働環境はそこまで悪くないので、とりあえず数年は続けてみるつもりである。

職場にある自分の机からは、大小さまざまな建物が立ち並ぶ東京の街並みが見える。換気扇が吐き出す煤に汚れたベランダの手摺、遠くに光る、苛立つほど綺麗に窓の拭かれた巨大なビル、ネオンの色彩が目にしみるパチンコ屋……。それらの間々に、水をたっぷり含ませた絵の具のような、淡い色をした冬の空が張り付いている。ご時世の影響で換気のために開けている窓から、冷たく乾いた空気が足元にまとわりつく。おかげでトイレへ小用を足しに行く頻度が高くなった。

昔、高村光太郎の妻・智恵子は「東京に空が無い」と言ったそうだ。働き始めて少し経つが、空を見上げるよりも目の前にあるパソコンの画面を見ていることの方がはるかに多い。歩いていても、前を行く群衆に当たらないよう、人の背中ばかりを見ている気がする。智恵子の言いたいこととはだいぶ違うだろうが、年齢を重ねると空はだんだん無くなっていくのかも知れない。

煙草を吸っているときだけは、空を眺めている。お昼休み、腹を満たし終えて駅前の喫煙所へ赴く。懐から煙草の箱を取り出し、火をつける。煙が龍のように天高く昇ってゆくのは見ていて気分がいい。そして、煙が風に流された先の空をぼんやり眺める。小春日和の寂しい空である。

 

まだ北の大地に暮らしていた頃、冬の空は鉛色をしていた。白銀に覆われた野原に寝転ぶと、遥かな高空から、音もなく雪が降り積もる。白い吐息に、雪が溶けて頬に流れる。今夜は根雪になるだろうと母が言うのを最後に聞いたのは、もう何年も前だ。

弟と二人で雪原を駆け回って、頬と両手が真っ赤になるまで遊んだあの頃、空はいつもすぐそこにあった。あの重たい雲に覆われた空は、いつの間にか俺のすぐ上から消え、今は淡く消えそうな東京の空が俺の遥かな頭上に凝然としている。

 

10年後、俺の頭上にはどんな空が広がっているのだろうか。

父と酒

俺の父親は、極めて酒好きな男である。週末の晩酌を楽しみに仕事をしているような節が多々あり、特に日本酒への造詣が深い。息子の俺が酒のことを少し訊ねると、嬉々として色々話してくれる。一番の趣味が酒であるから、それも自然なことだろう。酒屋へ行くときの父はいつも玩具店へ赴く子供のような顔をしている。

成人してから実家へ帰ると、父はいつも酒を勧めてくる。仕事で東京へ来る用事がある時も、都内の居酒屋を予約して飲みに誘ってくる。俺も酒は嫌いではないのでよく一緒に飲む。俺と酒を飲むとき、父はいつもすこぶる上機嫌な様子だ。

姉があまり酒に強くない一方、俺は極端に強い訳ではないが、平均よりは少し飲める方だ。父は晩酌が趣味なだけあって、ザルという表現が合致するような人物である。父は酒を飲むといつも「お前は飲めるなぁ、父さんに似たんだなぁ」と言う。実際、俺の様々な身体的特徴(卑近な例で言えば顔の造形だろうか)は驚くほど父に酷似しており、同じく俺の親である筈の母に似た要素はあまり見当たらない。

成人したばかりの頃は、父が俺とやたら酒を飲みたがる理由がよく分からなかった。外見は確かに似ているが、共通の趣味は読書ぐらいなもので、そもそも年齢だって当たり前だが数十歳離れている。性格も、父は社交的で能弁なところのある人物だが、息子の俺はかなり内向的だ。親子であることを抜きにしてみると、人物像や性格に重なる部分は然程多くない。父は自分と異なる特徴を数多く有した、こんな若者と晩酌をして楽しいのだろうか?そんなことを考えたこともあった。

今になると、父が俺と晩酌をしたがる理由が何となく分かる。俺がこういうことを言うのは立場として違うかも知れないが、恐らく息子の成長を実感したいのだろう。このことは、父が俺と飲んでいるとき昔の思い出をよく話すことからも何となく察しがつく。「昔のお前はこんな子供で……」等と話すエピソードを俺自身はあまり覚えていないが、父の中では大事な記憶のようだ。父は話したがりなので、内向的な俺との相性もいいのかも知れない。

 

先日父方の爺さんが他界し、父は自分の親を初めて亡くした。爺さんが数年前から病気がちだったこともあり、葬式で父は特に涙を見せたりはしなかった。ただ、坊さんの読経が響く中、遠いどこかを見ているような目をしていた。棺に眠る爺さんの口許を大好きだった焼酎で濡らしていた父の表情は、今でも忘れられない。やけにぎらつく初夏の太陽に、白い菊の花が目映かった。

父ももうすぐ還暦だ。俺が小さい頃の記憶よりもだいぶ「お爺さん」になってきている。白髪が増え、しょうもないギャグを言うようになり、怒ることも減った。最近は定年退職したあとの新しい趣味探しにご執心のようで、面白くて年老いてもできることをネットで色々検索して見つけようとしている。だが、恐らく定年してからも、相変わらず酒を飲んで刺身を食ってプロ野球を見ているような気がする。これは、或いは息子である俺の願望なのだろうか。

ジョッキになみなみと注がれたビールの泡の向こう側に見える父の顔は、いつか小さい頃、俺に絵本の読み聞かせをしてくれたあの日と同じ笑みを今でも浮かべている。

陽キャラ

現在のインターネット社会に「陽キャラ」「陰キャラ」という概念が生まれてから数年が経過した。既に皆さんご存知かとは思うが、俺は相当な陰キャラである。たぶん性格的に一生陽キャラにはなれないだろう。

この辺の概念は、元々「リア充」の対義語として「非リア充」なる言葉が誕生、そして時代の変遷とともにフォーカスされる部分が本人の境遇や環境から精神面、性格面へと移行したという流れだと俺は考えている。これまでそれなりに色々な人と出会ったが、中にはめちゃくちゃな陽キャラもいたし、俺以上の陰キャラもいた。

俺から見て、基本的に陽キャラは「あまり仲良くできないタイプの人」である(一部例外はあるが)。ここで誤解してほしくないのは、「仲良くできない」ということに関して、俺の彼らに対する好き嫌いが原因で仲良くできないという意味ではなく、単純に趣味嗜好の乖離が激しいため話があまり合わず、また彼らの底抜けな明るさに引け目を感じるため仲良くなりにくいという意味で言っているということである。つまり、「(俺の意思としてそうしたくないから)仲良くできない」のではなく、「(容易か困難かというと俺の能力的には後者だから)仲良くできない」ということを言いたいのだ。

 

 

昔の俺は、随分陽キャラを嫌っている人間だった。今は好きな部分とそうではない部分が混在しているが、同時に「すごいな」とは強く感じている。では何が凄いのか。

彼らは基本的に、面白いと感じると大笑いし、悲しいと感じるといかにも沈痛な面持ちをするように見える。感情をそのまま表に出して、互いのいいところを褒め合えるのは素晴らしいことだ。自然に、グループ全体の雰囲気も明るくワイワイしたものになるだろう。概して彼らのグループはエネルギッシュで、楽しい空気で満ちているから人がどんどん集まる。

そしてノリが良く、誰に対しても良く言えば気さく、悪く言えば馴れ馴れしい。そりゃ人生をエンジョイできる筈だ。少数ながら陽キャラの知人が俺にもいるが、彼らは基本的に人の発言を否定しない。相手を問わずに「それいいじゃん!」とサラっと言えるので、彼ら同士ではどんどん会話が弾み、交流が深まる。ここは彼らの大きな美点だと思う。否定から入りがちな人間がちらほらいる陰キャラとの違いはこういう部分かも知れない。馴れ馴れしいのは俺はあまり好きではないのでそこは賛否両論だが……。

先刻述べたが、昔の俺は陽キャラが大嫌いだった。「うるさいだけで、群れて騒ぐしか能のない馬鹿共」などと勝手に決め付けて見下していた過去の自分は頗る愚かだと思う。今でも「うるさいのはちょっとな」とは感じているが、俺は陽キャラの世界を教室や街などで見て分かること程度にしか知らないので、昔の俺が言う「群れて騒ぐしか能のない馬鹿共」かどうかを大して知りもせず勝手に決め付けることはなるべく総力を挙げて避けたいと思っている。

向こうは「陽キャラ」という概念それ自体などではなく(その概念に属する人々ではあるが)生きた人間だから、楽しく遊んでいるだけなのに影で言いがかりをつけられ悪口を言われたら気分を害して当然だ。そうなると陽キャラは陽キャラで「陰キャラは影でしかモノを言えない卑怯な弱虫」と見下して一定の距離を置くか、最悪何らかの反撃をしてくるから(当たり前だが陽キャラは仲間を侮辱されることを強く嫌悪する)、ますます両者の溝は深まるという構造がここに存在していると思う。無論例外もあることを否定はしないが。

中学、高校時代に俺も「陽キャラに嫌なことをされた!あいつらなんて大嫌いだ!」等と考えていた時期があったが、今になって思い返すとだいたい俺の方が最初に何か彼らの気分を害するような言動を影でしていた(悪口を言ったり話したくないからと無視したり……)。そういう自分は極めて卑怯者だと思う。彼らが気付かずに無遠慮なことをして俺が怒った場合もあったのでこちらが100%悪いとまでは思わないが、あたかも自分に全く非がないかのような言説はおかしい。だいたいの陽キャラは、あんまり陰キャラのことを気に留めていない感じがする。勿論こちらが何もしていないのに過剰に関わってきて、あれこれ言ってくるろくでもない奴もいるにはいるが……。

陽キャラはおおよその場合気さくな人間なので、時々こちらにも話しかけてくることがある。だが、俺は生まれてからずっと陰気な人間だったから、話しかけられても返し方が分からないのだ(もしこれを読んでいる陽キャラの人がいたら、恐縮だがこれを心に留めておいてほしい)。だから奇妙な返答になったり、口ごもったりしてしまう。これで相手が実は「陽キャラになりたがっている陰キャラ」だったら最悪だ(俺はこの人種は嫌いである)。間違いなくモゴモゴした返事ただそれだけで見下され、下手するといじめられる。偏見かも知れないが、陰キャラをいじめている奴はだいたいこれだと俺は思っている。陽キャラがどのような意図を以て俺のような陰キャラに話しかけるのかは正直全く分からないが、過去俺に話しかけてきた本物の陽キャラは俺があたふたしていると早々に会話を切り上げるか、こちらが何か喋るまでじっと待っているかのどちらかだった。

 

 

陽キャラ」「陰キャラ」というかなり乱暴な切り分けでここまで書いてきたが、この2つが対立しやすいのは価値観、大事にしているものが大きく異なっているからだと思う。これはあくまでも俺の推測に過ぎないが、陽キャラが大事にしているのは友情や日々の楽しさといった質的な部分で、陰キャラのそれは知識、数値などの量的部分なのではないか。どちらが良くてどちらが悪い等という話は結論が出ないので避けるが、ここに両者が対立しやすい要因があるような気がするのだ。

かつての俺は陽キャラを随分憎んでいたが、それは彼らに対する憧れの裏返しでもあったように思う。だが、一時期陽キャラの真似事をしてみても、ただ心が疲れ果てるだけだった。今は「無理に明るく快活になろうとしなくてもいいのかな」と思えるようになって、そのせいかは分からないが以前より明るくなったと友人に言われることが増えた。俺は、たぶん一生明るく朗らかな人間にはなれないと思う。今後も「陰キャラ」と言われる機会もあるだろう。でも、そういう人生の形もあっていいんじゃないだろうか。あと、人の発言に対し否定から入ることはしないように注意して生きていきたい。

カッコつけたい時期

思春期の男子は、基本的にカッコつけたがる生き物である。今になって振り返ると呆れ返るほど馬鹿なことをカッコいいと思っていた訳で、あの頃女子にウケると思ってやっていたことはだいたい何とも思われていないかダサいと思われていたかの二つに一つだったろう。当時の俺が自己をある程度客観的に見つめる視点を著しく欠いていたことは否めない。

 

中学生の頃、ポケットに手を入れて歩くのがカッコいいと思っていた。何だか少し悪な感じがして(中学生男子にとって、カッコつけと少し悪は同義語である)、特に登下校の最中によくやっていた。たぶんそもそも女子に気付かれてなかったと思う。思い返してみてもかなりダサい。考えてみれば、中学で背が伸びまくってズボンが七分丈みたいになっていた制服で不良ぶってもコントにしか見えないだろう。不良が腰パンで手を突っ込んでいるならまだしも、モサッとした髪型にニキビだらけの顔をした気持ち悪いオタクがそんなことをしていても女子にウケる要素などどこにもないのは至極当たり前である。

制服に関するカッコつけは色々あった。上着の下に着るシャツは長袖と半袖の二種類あって、夏以外は長袖を着用する。この長袖シャツを腕捲りして着るのがカッコいいと思っていた。猛者になると、半袖の時ですら捲ってノースリーブのシャツみたいにしていた。捲れた袖が肩のところでクロワッサンみたいに丸まっているのが少し笑える着こなしである。他にも(俺はやってなかったが)、上着のボタンをわざと留めないで前を開けて着たり、靴のかかとをわざと踏んで履いたり……。とにかく制服は崩して着るのがカッコいいとだいたいの男子は考えていたようである。女子がどう感じていたかは全く知らないが、少なくとも「カッコいい」とは多分思ってないだろう。清潔感ないし。この頃の体験を通じて、後に俺は「清潔感」というものが女性が男性を評価する上でかなり大きなウェイトを占めていることを学んだ。

 

ありがちな話だが、「女になんか全然興味ないから」とスカした態度を取るのがカッコいいと思っていた。むろん実際のところは思春期であるから「女子にモテたい」「彼女がほしい」「女子の裸を見たい」「おっぱい揉みたい」「おっぱい揉みたい」「おっぱい揉みたい」……等ということしか考えていない。10代男子のガラスの心にとって「めちゃくちゃモテたいのに現実的には女子に毛ほども相手にされていない自分」を受け入れることは耐え難い屈辱である。それをどうにか受け入れるために編み出したのが「女になんか興味ないからモテなくても全然悔しくない」という態度だった訳だ。もうこの文章を見ただけでも「死ぬほどモテたいんだろうし、おっぱいとかも揉みたいんだろうな~」と感じられて苦笑いしてしまう。事実、俺は何とかしておっぱいが揉めないかとあれこれ考えを巡らせては良いアイデアが思い付かず虚しく眠ることを中学時代繰り返していた。3年間でその成果が出たかどうか、読者諸賢は書かなくても勿論お分かりだろう。後に高校へ入学してから、この辺の性的欲望は一気にオープンな、かつ負の方向へと振り切れることになる。

今になって振り返ると、そんなにモテたいのならもっさりした髪型を整えるとか筋肉をもっとつけるとか(俺の中には思春期の女子は大抵運動部の筋肉質な男子が好きだという偏見がある)、色々できることはあった筈だ。ありのままの自分を受け入れてほしいという10年前の自分が抱く気持ちは分からなくもないが、それが可能なルックスや性格、能力を磨いてこなかったことに俺は愚かにも気づいていなかった。極端に言えば、レストランで生の豚肉を出されて「これがありのままの豚肉ですので、受け入れてお召し上がりください」等と言われるようなものである。加工して見栄えや味を良くしたから食べてもらえるわけで、何も加工しないまま食えと要求されてもどだい無理な話だ。そもそも、「モテたい=色んな異性に好かれてその中から自分の一番好みな異性を自由に選びたい」というとんでもなく傍若無人な欲望であり、そりゃそんなこと考えてる奴が女子から相手にされないのも当然だ。相手は玩具店に売っているお人形さんではなく、一人の生きた人間の女の子なのだから。

 

特に成績の良い男子にありがちなことだが、定期試験前になると「今回全然勉強してないからなぁ~」と女子の前で言う。本当は机にかじりついてめちゃくちゃ勉強しているのに。

勉強していないことがカッコいいと思っていた時期が俺にもあった。しかし実際は何だかんだ勉強していたから、それを女子に知られてはいけない訳だ。今になると心底馬鹿だと思うが、当時の俺は『勉強してないアピール→試験で高得点→女子に「カッコいい!!すごい!!♥️♥️」と言われる』と内心まあまあ本気で思っていた。実際のところは、俺のような陰気な男子が高得点を取っても良くて精々「あーそうなんだ、すごいね」程度である。女子との関わりが少なかったから当たり前だ。むしろ「すごいね」と言ってくれればまだいい方かも知れない。因みに、一番俺の成績を褒めてくれた異性はダントツで姉だった(俺の母親は子供を褒めない人だ)。

勉強関連で言うと、女子に勉強を教えてくれと頼まれたときにわざとぶっきらぼうに教えるのがカッコいいと思っていた。折角頼ってくれたのに失礼以外の何物でもない。「こんなの誰でもわかるだろ、簡単だよ」とかほざいてる暇があるなら練習問題のひとつでも作問した方がまだ好印象なのは考えるまでもない。あと、学生時代の女の子は勉強してないアピールにばかり精を出している俺のような男子よりも、毎日コツコツ目標に向かって頑張ってる努力家な男子の方が多分好きだと思う。

今までの人生で学んだことだが、女性は基本的に一目惚れの割合が男性に比べて非常に低いような気がする。女性というものは全員そうだと主張する訳ではないが、少なくとも俺の周囲にいた女性はあまり一目惚れをしなかったように思う。そして、女性が男性を評価するとき、俺には未だにハッキリと実態の掴めない「生理的に無理」というカテゴリーがあるらしい。姉に訊いたところ「清潔感のない人は全員そこだね」とのことだった。また「清潔感」か……。まあ男性の俺も髪の毛が脂でテカテカしてたり、フケだらけだったり、シャツが皺だらけでヨレヨレだったりする女性は確かに嫌だから、その感覚の強化版みたいなものなのだろうか。

 

他にも色々と意味不明なカッコつけは存在した。夜更かしをするのがカッコいい、授業中居眠りをするのがカッコいい、早弁をするのがカッコいい、テストで高得点を取っても平然としているのがカッコいい、等々……。正直書いていて恥ずかしいが、昔の俺は大真面目だった。自分でも非常に気持ち悪いと思う。ありのままでモテる人間など数はそんなに多くないから、それを自覚した上で何とか工夫をしていたという思い切り好意的な解釈をしても、流石にダサい以外の感想がない。

因みに、俺には弟がいるのだが、彼は彼で「女に興味ないカッコつけ」を俺以上に尖った形で行っていた。バレンタインデーにクラスの女子から呼び出され(弟は俺よりだいぶモテる男だ)、チョコを渡され告白されたにも関わらず「いや、付き合うとか興味ねえから」などと言って断った話をニヤニヤ笑いながら自慢げにしていたのを覚えている。弟の手には、その女子から貰ったチョコレートの食べかけがしっかりと握られていた。

告白断っておいてチョコだけもらってくるなよ。おい。

温泉と父

僕の実家がある町には、小さな温泉がある。幼少期からよく行っていたように記憶しており、今でも帰省するとたまに連れていかれる。

小学校に入るか入らないか位の頃から、父に連れられて時折温泉へ出掛けた。臆病な子供だった僕は、当時まだ風呂で頭を流すときに目をつぶるのが怖くて仕方なかった。そういう時はだいたい母に洗ってほしい旨を告げて解決していたような記憶がある。父は洗う力がやや強く、また子供心に少し怖さを感じる存在であったこともあり、あまりそういったことは頼まなかった。父は身長が180cmを越える非常に大柄な男で、かつ筋肉質な体つきをしているから、単純な大きさだけでも小学校低学年の僕にとっては畏怖の対象だったということをどうかご理解いただきたい(母も女性としてはかなりの高身長だが)。

父と温泉に入ると、横で体を洗う父の腕や足は丸太のように見えて、生来痩せっぽちの僕はいつも目を見張った。語弊があるかも知れないが、あまりのサイズの違いにとても同じ人間だとは思えなかった(当時の僕は自分が成長し、やがてニキビだらけの冴えない青年になるという自覚が全くない)。父は温泉に行くとよく僕に「お前も背が伸びてきたなぁ、大きくなったなぁ」と言ったが、小学生の僕が怪訝な顔をしていたことは言うまでもない。暑がりでこらえ性のない僕がすぐ温泉を出ようとするので、100数えるまで上がるなと父が言い、熱くて逆上せそうになる中もぞもぞと数字を唱えた。

 

大学生になってから久々に父と二人で温泉へ出掛けた時のことである。横で昔のように体を洗う父と、僕の頭の位置はほぼ変わらなくなっていた。父の短く刈り込んだ頭にはあの頃なかった白髪が目立ち、胡麻を振ったようになっていた。昔は弁当箱のような四角い顔にいつも厳めしい表情ばかり作っていたが、50歳を過ぎたあたりからすっかり愛想のいい「おじさん」になった。

昔と変わらず痩せている僕の手足を眺めて「相変わらず細いなあ、ちゃんと東京で飯食ってるのか」と父に言われたが、十数年前に比べると父も少し小さくなったように感じた。

父と二人で温泉に浸かる。やっぱり頭の位置は変わらない。父の「大きくなったなぁ…」は、昔よりもしみじみと聞こえるようになった。もう、あの頃のように僕が100を数える声が温泉の天井に響くことは二度とない。

食事の思い出

まだ小学生だった頃、僕は毎日のように野山で遊び回る田舎の少年であった。学校から帰ると虫採りへ行き、昆虫のいない冬は橇で雪山を滑り、腹が減ったら家路についた。

小学生の僕は、痩せた子供だった。なのにかなりの大食いで、両親によく不思議がられたものだった。

あの頃の食卓で僕が大好きだったのは豚カツだ。父の給料日が来ると、母はいつもより少し良い肉を買ってくる。その頃は家庭もそれほどギスギスしていなかったから、豚カツが並ぶ月末の食卓が僕はいつも待ち遠しかった。

母の作る豚カツはいつも衣がサクサクで、中の肉は小学生の僕でも食べやすいよう柔らかく下拵えがしてあった。ソースをかけて頬張ると堪らない美味しさで、ついつい3枚4枚とおかわりを繰り返した。母はそういうときいつも「私はもういらないからあんたが食べなさい」と言って1枚しかない自分の豚カツをくれた。弟とそれを巡って取り合いの口論になり、母がその豚カツを半分に分けて僕ら兄弟を宥めるのが常であった。食事が終わり僕と弟がレゴブロックで遊ぶ頃に、築40年近い当時の自宅の古びた台所で黙って洗い物をする母の背中が何故か寂しく思えた。台所のすりガラスの外には、いつも白熱灯がぼんやりと滲んで見えていた。

 

小学生の頃は平均身長ぐらいの体格だった僕だが、中学校の3年間で20cm背が伸びた。所謂成長期だ。

この頃の生活は、ほぼ食欲と性欲、そして自意識に支配されていた。中でも食欲が一際強く、給食はおかわり必須であった。給食前の4時間目の授業中に空腹で音が鳴るのが嫌で朝食も白米を二杯おかわりしていたのだが、それでも毎日ぐぅと腹が鳴る。今思うと運動部でもないのに毎日馬鹿みたいな量の飯を平らげていた。だから身長が伸びたのかも知れない。

朝食は毎日白米で、パンは全く食べなかった。パン派の姉はやや不満げであったが、姉以外の家族全員が白米派であったから仕方ない。朝食のメニューは、白米と味噌汁は固定で他はおかずが1品か2品ついた。

わかめの味噌汁が僕の思春期の思い出の食事である。母はいつも白味噌で作っていた。朝の弱い僕が漸く遅刻ギリギリで起き出してくると、居間は味噌汁の香りに満ちている。母に急かされながら朝食を摂り、制服に着替えて家を出る。朝の冷たい空気が肺を満たした。勉強は嫌いではなかったが、学校はあまり好きではなかった。家族の朝食に会話が減っていったのは、この頃からだっただろうか。今となっては、あまりよく覚えていない。

 

かなり通学に時間がかかる高校に進学して、家を出る時間がぐっと早くなった。最初の頃は母が弁当を作ってくれたが、しばらくして「早起きして弁当を作るのが面倒」という至極もっともなお達しを彼女が僕に言い渡したため、その後は食堂で昼飯を食べるようになった。

中学生の頃ほどではなくなったが、相変わらず食事の量は多かった。食堂のメニューに炒飯があったのだが、僕はいつも大盛りを注文していた。しかもそれでは飽き足らず、帰宅途中によくおにぎり等を買い食いしていた。

高校2年生の春休みに、11年間習い続けていたピアノをやめた。受験勉強のためだった。最後の発表会で、ピアノ教室の先生と握手を交わした思い出が頭を過る。習い始めた頃は小さな子供だったのに、いつの間にか僕の方が先生よりもだいぶ大きくなってしまっていた。

発表会が終わったあと、家族で回転寿司を食べに行った。弟と二人で、どちらが沢山食べられるか競争になった。もう先生にピアノを習えないという寂しさを紛らわせようと、僕は寿司を沢山食べた。わさびが鼻につんと染みた。

 

高校3年生の冬、家庭は冷えていた。母と姉が毎日喧嘩を繰り返し、父は数年前から単身赴任で家にあまりいなかった。

塾から帰るといつも弟が玄関で嫌気のさした顔をしていた。2階からは怒鳴り声が聞こえてくる。誰もいないテーブルには昔を思い出すかのように、僕用に作られた冷めた豚カツの乗った皿が1枚、ラップに包まれて置いてあった。家族がバラバラに食事をすることが増えて、話すことも減った。このころよく母と二人で晩飯を食べたのだが、あの頃のように話すことはできなかった。僕も母もそれぞれの事情でストレスを溜めており、喧嘩はさほどしなかったが接し方を忘れてしまったような感覚がした。母は「おかわりいらない?私のをあげようか」と、僕が食べ終わる前によく言ってきたが、元々異常な程痩せているのが歳を取ってますます細くなり、皺も増えた母の食事を貰うことはできなかった。

冷めた豚カツは、しなびた衣に染みこんだソースの味ばかり目立っていた。窓の外には、雪がしんしんと降っていた。

 

大学生になり、僕は実家を出た。初めての東京暮らしは何もかも新鮮で、田舎者の僕は全てに圧倒されていた。

独り暮らしであるから当然自分の食事を作る必要に迫られる訳だが、母のように美味しくできない。炒飯、野菜炒め、鍋などの簡単な料理しか作れない。塩辛い野菜炒めをおかずにご飯を食べた。一人で食事をするのは慣れていたが、どこか侘しかった。

最近これではまずいと思い、料理を練習し始めた。オムライスを練習しているのだが、これが中々面白い。いつの日でも、美味しい食事は僕に元気を与えてくれる。

先日帰省したときに、母の豚カツを久々に食べた。あの頃と変わらない美味しさが、嬉しかった。家族があちこちに離散し、昔のように団欒を楽しむことはもう出来なくなったが、豚カツの味は今になっても変わらない。

やはり、豚カツは揚げたてで温かい方がいい。