「真夜中のカーボーイ」は、1969年公開のアメリカ映画だ。第42回アカデミー賞作品賞を受賞した名作で、監督はジョン・シュレシンジャー、主演はジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマンが務めている。
いわゆるアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群の1つで、その中でも特に優れた作品とも言われる名画だが、何が人々をそれほど惹き付けたのだろうか。
先日、Amazon プライム・ビデオでこの映画が配信されていたので視聴してみたが、これほど評価される理由も納得の作品だった。そして同時に、人生とは何か、理想と現実とは何か、まざまざと見せつけられたように思われ、視聴後はしばらく少しブルーな気持ちになった。この映画を観て感じたこと、考えたことを私なりに書いてみたい。
※以下、ネタバレを含む
・あらすじ
テキサスの田舎町でレストランの皿洗いをしている主人公のジョー(ジョン・ヴォイト)は、カウボーイに憧れて、毎日テンガロンハットを被ってウエスタンジャケットを着ているような、いわば「ちょっと痛いヤツ」である。田舎でのうだつの上がらない暮らしに嫌気が差していた彼は、ニューヨークでは金持ちの女が男を買っていると聞き、カウボーイを気取る自分ならきっと上手く(今で言うところの)ママ活で稼げるはずさ、と甘い希望を抱いてニューヨーク行きのバスへ乗り込む。
しかし現実のニューヨークでは、女たちは誰もジョーのことなど鼻にもかけず、しまいには騙されて金までふんだくられる始末。打ちひしがれたジョーは、場末の酒場で、汚い身なりをした片足の不自由な小男、ラッツォ(ダスティン・ホフマン)と出会う。ラッツォはジョーに、ママ活するならいい客を紹介するというが、仲介料を払ったジョーがラッツォの紹介で出会った客は宗教に狂うゲイの中年男だった。
騙されて激怒するジョーはラッツォを探し見つけ出すが、金はもうないという。ジョーは泊まっているホテルの宿泊費もいよいよ払えなくなり、見かねたラッツォが自宅に泊める。彼の住んでいる廃墟のアパートの一室で、最初は仲違いしたはずの彼ら2人の奇妙な同棲生活が始まる。
貧困に喘ぎながら、2人は何とかジョーのママ活を軌道に乗せようと四苦八苦するが、全くうまく行かず、何もかも失敗だらけ。いつしか彼らの間には、冷たい大都会のニューヨークでお互いに孤独を埋め合い、つかの間の安息を得る不思議な友情が芽生え始める。
やがて冬が近付くにつれて、ラッツォの体をしだいに病魔が襲うが、病院に行く金もない。高熱にうなされ咳き込むラッツォは、まともに歩くこともできない。ラッツォはジョーに「フロリダへ行こう、フロリダでやり直そう」と夢見心地で呟く。
ジョーは運良く手に入れた金でフロリダ行きのバスのチケットを買い、ラッツォを抱き抱えて乗り込む。フロリダへの道中、病に苦しむラッツォは小便を漏らしてしまう。ジョーはバスの休憩時間に町でラッツォと自分の着替えを買い、そして、それまで着ていたカウボーイの衣装一式を町のゴミ箱に投げ捨てる。
しかし、ラッツォはフロリダに着く間際、息絶えてしまう。ラッツォの亡骸を抱き締めたジョーが、バスの窓に映るフロリダのヤシの並木を、呆然と眺めている顔のアップで、物語は幕を閉じる。
・理想と現実、その残酷さ
物語は、ジョーがニューヨークでママ活して金を稼ごうとするところから始まる。このジョーの夢、理想はハッキリ言って愚かで世間知らずとしか言いようがない。今のようにインターネットやSNSのなかった時代だ。テキサスの田舎に暮らすジョーが情報を手に入れる手段は極めて限られているが、だとしても普通は分かりそうなものである。ジョーは根っからのお人好しで騙されやすい、どこにでもいる都会や強い男に憧れる田舎者だ。ジョン・シュレシンジャー監督は、このジョーの純朴さ、愚かさ、甘さ(言い換えれば「子供っぽさ」)を丁寧に描く。それによって、ジョーの抱く甘い愚かな夢が、どこか滑稽で憎めない印象になり、だからこそ後のシーンの残酷さがより際立つ。いわばここが物語の「フリ」になっているわけだ。
ジョーにとっての理想の自分は「ニューヨークでママ活して稼ぎまくり、労せずに金と女と名声を手にして豪勢な暮らしをする自分」である。しかし現実のジョーは、「カウボーイかぶれの痛いヤツで、田舎で冴えない日々を送り、ニューヨークへ出てきても金も女も名声も何一つ手にできない、失敗ばかりの惨めな自分」だ。理想と現実のギャップという残酷さを、この映画は容赦なく描く。アメリカンドリームの末路の惨めさを、これでもかというほど我々に突きつける。
一方のラッツォも、いくら金持ちで女に囲まれた理想を夢見ても、ついに都会の底辺から終生這い上がれない。物語のなかで、ラッツォがフロリダでの幸福な生活を夢見るシーンがあるのだが、その内容は女に囲まれたラッツォとジョーが、太陽の降り注ぐビーチで追いかけっこをして戯れるというものだ。彼の片足は不自由で、いつも片足を引きずって歩いているのに、夢見る理想の中でだけは全力疾走。理想のラッツォがする全力疾走の滑稽さと、足が不自由で病気に冒され、満足に歩くこともできない現実のラッツォとの残酷なコントラスト。おかしみ、愚かさ、絶望、儚い夢が渾然一体となった、とても印象的なシーンだ。
ラストシーンの手前で、ジョーは着替え(普通のシャツとチノパン)を買った後、カウボーイの衣装を捨て、そしてラッツォへ「フロリダに着いたら、仕事を探すよ。女は儲からないしな」と語る。捨てたカウボーイの衣装は、ジョーにとって「理想の自分」の象徴だった。ジョーはカウボーイの衣装を捨てることで、夢や理想と決別し、残酷で退屈な現実と向き合うことを決めたように感じる。理想の自分、言い換えれば身の丈に合わない自分を捨てることで、人は少しずつ大人になっていくのだ。いわばこの映画は、ジョーが大人になるまでを描いた物語だと私は思う。
・大都会の孤独と、2人の友情
ニューヨークという華やかな大都会で、ジョーとラッツォはどこまでも孤独な2人として描かれる。頼る身内も友人も恋人もおらず、金もなく、誰にも相手にされず、ひたすら惨めな日々を送る。
2人の友情も、掛け値なしのものかと問われるとそういう感じはしない。私には、どちらかというと依存、蔑み、同情、そして友愛が混ざった複雑な感情に見えた。お互いに大都会での孤独な日々のなかで、他に頼る者がおらず、孤独を埋めるために相手へ依存する。しかしどこかで、「こいつよりはましだな」と相手を蔑んでいる。蔑みつつ、互いの哀れな現実に同情し、そしてそんな相手のどうしようもなさ、愚かさに「しょうがねえヤツだな」と友愛を感じる。矛盾する心情のようだが、そもそも人間の感情というものは、それ自体が矛盾を抱えがちなもので、この独特でアンビバレントな2人の友情の描き方が、とても生々しく、リアルに感じられた。
この映画のメインテーマは、ハリー・ニルソンがカバーした「うわさの男」だ。映画の冒頭でこの曲が流れ、ジョーがニューヨーク行きのバスへ乗る時は、都会で一旗揚げてやろうという意気込みや、まだ見ぬニューヨークへの夢が感じられワクワクするのだが、ラストシーンの手前で流れるこの曲を改めて聴くと、全く違った印象に思える。ジョーは憧れの大都会で何もかも上手くいかず、夢破れて唯一の友も失い、そして誰にとっても「うわさの男」ではなかった。ジョーは、ニューヨークで孤独な日々を送り、そして恐らくマイアミでも「うわさの男」になれない孤独な日々を送るだろう。
・「感情」の不思議さ
前の項目でも書いたが、ジョーとラッツォの友情はどこか一筋縄ではなく、依存、蔑み、同情、友愛など様々な感情が入り交じるものだ。これが実にリアルである。人生をふと振り返ると、そういった感情の矛盾を抱えて我々は生きていることに気付かされる。
気ままな独身生活が楽しいのに、どこか家庭を持った友人が羨ましくて、孤独に苛まれるのに誰かと一緒にいるのが煩わしい。逆に家族と過ごす日々が幸せなはずなのに、その存在がふと疎ましく思われ、一人で気楽に生きている友人が羨ましく、でもその疎ましく思ったはずの家族への愛情もまた確かに己のなかにある……。卑近な例を出せば、先に述べたような体験をしたことのある人は少なくないだろう。
そういった、言葉で切り分けられない感情の曖昧さ、矛盾、微妙なグラデーションが、この映画をより名作たらしめている。ただのアメリカンドリームに破れる物語ではなく、夢破れるまでに渦巻く様々な感情を言外に感じさせる演出、そしてジョン・ヴォイトとダスティン・ホフマンの凄みすら感じさせる演技、それが「真夜中のカーボーイ」の素晴らしさ、残酷さ、美しさだと思う。
中でも、やはりダスティン・ホフマンの圧倒的な芝居には脱帽である。「真夜中のカーボーイ」の2年前に公開された彼の出世作「卒業」では将来に悩むエリートの若者を清潔に演じたが、この映画では無学で貧乏、不潔なホームレスのラッツォという正反対の役だ。この汚ならしさの見せ方が素晴らしい。ボサボサの長髪で、くたびれたコートをいつも羽織り、顔も髪も脂で鈍くギトギト光っている。このみすぼらしい見た目から、数多の感情のグラデーションを感じさせる表情が次々と生み出される。ダスティン・ホフマンがいかに天才役者であるかは、この映画を観れば身に染みて感じられるだろう。
・ラストシーン
「真夜中のカーボーイ」のラストシーンは、ラッツォの亡骸を抱き締めたジョーが、バスの窓に映る夕焼けに染まったマイアミの街を呆然と眺めている、というものだ。
このラストシーンの、なんと無残で美しいことか。夢見た理想は何も手に入らず、退屈で残酷な現実に向き合う覚悟を決めてカウボーイの衣装を捨てたのに、唯一の友をマイアミに着く間際に亡くしてしまう。マイアミに向かう前は、ラッツォと「マイアミでは男好きの熟女がいるって言うしな」なんて冗談を言っていたけれど、ジョーはそんなものはいないと心の奥では悟っている。マイアミの街にも、恐らくジョーの理想はない。テキサスの田舎やニューヨークの廃アパートで過ごしていた、冴えない暮らしの焼き直しが繰り広げられるだけだ。そして、彼らの夢破れた無残さと、その破れた夢の欠片が見せる美しさ……。人生の意味、夢というものの儚さ、現実の退屈さ、残酷さ、どうしようもない孤独、後戻りできない時間の流れ、これらが渾然一体となってラストシーンを形作り、それが観る者の胸を打つのだ。
「真夜中のカーボーイ」が見せるアメリカの、そして人生の夢と現実。自分の人生にもあった「あの頃」と「今」に思いを馳せる名作を、ぜひ一度観てみてほしい。
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