流し読み

どうでもいいこと

青空

あれは、一度目のフリーター時代の、夏のことである。
いい加減に正社員として就職しようと重い腰を上げ、いくつかの求人に応募するも当然ながら書類落ちし、落ち込んでいたある日だった。
幸運にも、とある清掃会社の面接に合格し、体験入社をした上で入るかどうか決めてほしいと言われ、せっかくならと行かせてもらった。
くだんの会社は、家から電車で数十分のところにあった。地下鉄にゆられて、眠い目をこすりつつ向かった。途中のコンビニで朝ごはんのお握りを食べ、緊張と暑さで出てくる脂汗を拭いながら、雑居ビルの一角にある事務所へと、遅いエレベーターで上がっていった。

挨拶をすませて、作業着に着替える。ワークマンで売っていそうな錆浅葱の色をしたツナギで、そういう服を着るのが初めての私はたいそう便利な衣服があるものだと感心したのを覚えている。
先輩職員の運転する車に乗り込み、今日の現場だというマンションへ向かった。ちょうど時期は夏の盛りで、開けた窓からアブラゼミの声がうるさく聞こえてくる。街路樹の緑が目に眩しい。車内には私のほかに3人の社員がおり、「なんでうちを受けようと思ったの」といった通り一遍の質問をされた後は、特に何かを訊かれることもなかった。

現場のマンションに着く。なかなか立派な建物で、一体どんなお金持ちが住んでいるのかなあ、等と阿呆なことを考えた。そして、それと比べてお金も職もなく、人生の最底辺を生きているような自分の馬鹿さ加減に溜息をついた。
道具を持ち、エレベーターで最上階へ行く。マンションの欄干から眺める景色は、東京の空とは思えぬ広さだ。都合6年半ほど東京で暮らしたが、あんなに空が広かったのはこの時と東京競馬場に行ったときくらいだったと思う。抜けるような夏の青空から風がびょうびょうと吹き付け、ツナギがバタバタ揺れる。眼下に広がる武蔵野台地は、盛夏の日差しにぼんやりと霞んで見えた。
一番ベテランとおぼしき先輩が、水圧で掃除する道具を慣れた手つきで準備する。BSの通販でたまに見る、ケルヒャーの強化版みたいな見た目だ。噴射すると、黒ずんだ汚れが吹き飛ばされ、クリーム色の壁が流水に輝く。水しぶきが風に乗って、思ったほど体感気温は暑くない。

モップを持ち、一番若い社員と二人で廊下を拭いていく。腰にかなり来る作業だ。淡々と拭いていると、ふと社員に話しかけられた。
「この仕事、どう思います?」
無論、私はまだ体験入社の身であるから、悪く言えるはずもない。だが、仕事もないくせにプライドだけは一丁前の私は、素直に「楽しいですね」などと返答することはできなかった。結局口から出たのは、
「まだ入社したわけではないので、よくわからないですが、精一杯やるだけです」
などという、お茶を濁しているのが見え見えのセリフだった。
向こうも何となく私が希望してこの会社を受けたわけではないことに勘付いたようで、
「まあ、そう言うしかないですよね…こんな仕事やりたい人いないですよ」
と汗をぬぐいながら、疲れを湛えた瞳で青空を見上げて呟いた。

この期に及んで極めて恥ずかしいことだが、彼のそのような諦観的な態度への軽蔑を、その時全く抱かなかったと言えば噓になる。彼のようにはなるまいと思いつつも、一方で自分の将来を見ているような気がして、二人でいるのが無性に怖くなり、
「下の階を拭いてきます。分担したほうが早く終わりますよね」
と言い、非常階段を逃げるように小走りに降りた。夏の日差しに、吹き付けられた水しぶきが輝く。廊下に小さな虹がかかった。

黙々と廊下をモップがけする。うなじに日差しが照りつけてジリジリと痛む。ああ、日焼け止めを塗ってくるんだったな、なんて考える。尻ポケットに突っ込んだ雑巾が冷たい。床をこする。
いつの間にか、ツナギが黒い汚れにまみれていた。存外、時間が経っていたようだ。先輩職員の呼ぶ声が聞こえ、廊下の向こうにある階段の踊り場へ走る。
今度は二手に分かれて、共用部の部屋を掃除する。会議やら、催し物やらをしている部屋らしく、けっこう大きい。何だか、ホテルのレストランみたいな見た目だ。私は、眼鏡をかけたおじさんの社員と二人になり、モップをかけていく。クーラーが効いた部屋で、ほっと一息。

モップをかけ終わり、おじさんとお茶を飲みながら少し話した。
「君は、大学を出ているの?」
「一応出てますよ」
「どこ大?」
「〇〇大です」
おじさんは目を見開いた。
「すごいとこ出てるじゃないか、何でうちなんか入ろうとしてるの?」
「いや、そんな大したとこじゃないですよ…」
おじさんは、にこやかな表情をしていた。だが、眼鏡の奥の瞳は、動物園のカバのような、どこか悲しげで、疲れの滲む、澄んだ色彩を湛えていた。あの、疲れと透明感を同時に湛えた瞳が、今でも忘れられない。
「悪いこと言わないから、うちはやめときな。せっかく親御さんにいい大学を出させてもらったんだから、もっとふさわしい仕事が君にはあるよ。俺みたいな、学も技術も資格もない馬鹿がやる仕事だから、これは」
「いや、そんな…」
かける言葉は、思いつかなかった。否定しようにも、俺はおじさんのことを名前くらいしか知らないのだから、その否定はどう転んだって本当ではなくなってしまう。かといって、肯定するのはあまりにも失礼だ。
締め切った部屋には、時計の秒針の音だけが響いていた。水にぬれたフローリングの床が、夏の日差しに鈍く光る。窓ごしの澄み切った青空に、湧き上がる白い雲。どんな悲しみも、あそこまでは届かないと歌っていたのは誰だっただろうか。

その後、私は結局その会社には入らなかった。あのカバのような澄んだ目をしたおじさんにも、無論それから一度も会っていない。
うなじを照らす、濃い夏の日差しを見上げるたびに、あの青空がやけにきれいだった1日を今でも思い出す。