流し読み

俺にまつわるエトセトラ

文章をうまく書く

文章力とは、どのような力なのだろうか。少し面倒な言い方をすると、今回は「文章をうまく書くこと」について文章を書く。

 

1.基本的な文章の巧拙

文章を書く目的は、大方の場合「他者に何らかのメッセージを伝えること」だろう。日記や個人的なメモなど、それを目的としない文章(つまり自分以外の人間が読むことを想定せずに書かれた文章)もあるにはあるが、普段我々が声に出したり、手紙やメール、SNS等で書く、或いは打つ文章は、誰かに聴かれること、読まれることを前提としているのは間違いない。

これを念頭に置いて、基本的な文章の巧拙について考える。

「他者に何らかのメッセージを伝えること」が文章の目的とすれば、文章の巧拙は通常「そのメッセージが伝わりやすいか否か」で判断されるのが妥当と言えよう。以下に例を示してみる。

 

a.私は彼の不審な挙動が気になり、何故そんなことをするのか尋ねた。

b.私は彼のやることが何だか変だなーと思ったから、私は何だか彼のやることのわけが気になったから、私は今の彼のやることのわけを訊いてみた。

 

aとbの文章は、その伝えたい内容は同じだ。しかし、aとbの文章を比較して「bの方が読みやすい!卓抜な文章だ!」と感じる人は恐らくあまり多くないのではないか。

その理由としては、

1.aと比較してbは冗長であるから。

2.aと比較してbは「何だか」という言葉を、同じ意味合いを持たせて一つの文中で二度用いているから。

3.aと比較してbは「今"の"彼"の"やること"の"」と同じ助詞を三度続けて用いているから。

4.aと比較してbは「彼のやること」という同じ名詞節を三度用いており、代名詞を使っていないから。

5.aと比較してbは「"私は"何だか~」「"私は"今の~」等、省略可能な主語を全く省略していないから。

6.aと比較してbは「から」という接尾語を同じ文中で二度用いているから。

これらが挙げられるだろう。aとbを比較した場合、上記の要因によりbの方が「メッセージの伝わりやすさ」という文章の最も重要な部分において、劣っていると言える。bの文章は、もう少し推敲を重ねた形で読み手の目に入るのが望ましい。

bの文章をもし整理して読みやすいもの(いわばb')にするなら、このような形になるだろう。

b'.私は彼のやることが変だと思い、その理由が気になったため、わけを尋ねてみた。

 

2.助詞の使い方に気を付ける

以前、ラジオNIKKEIの中野雷太アナウンサーが自身の競馬レース実況における助詞の使い方について話しているのを聞き、大変納得がいった記憶がある。彼曰く「内ラチ沿いを伸びてくる馬には『内から』と言う」「僕が『今日は』と言ったら、それは前回、前々回とは違っている。逆に『今日も』と言ったら、前回、前々回と同じ」なのだそうだ。試しに、彼の実況したレースの中からこれらのフレーズが使われている部分を引用してみる。

「その外"から"1番のキズナも追ってこれは横に広がった大激戦」…2013年日本ダービー

「さあ先頭4番ジェネラーレウーノ、今日"は"行きました」…2018年菊花賞

「12番ミッキースワロー今日"も"アルアインを前に見ています」…2017年菊花賞

こうして見てみると、助詞の使い方ひとつで文章全体の印象が少なからず左右されることが伺えるのではないだろうか。

前章で述べた通り、同じ助詞を続ければくどくなるし、本章で述べたように、いつもと同じことを「今日は○○だ」と表現すると文章として適切とはあまり言えない。

「も」と言えば、「他のことがらや過去の出来事と同様に今述べた内容が成立する」という意味合いを伝達できる。逆に、「は」と言うと、「他のことがらや過去の出来事に関係なく、今述べた内容のみについてそれが成立する」ということがニュアンスとして伝わるだろう。

「も」を使うなら例えば、

A「私"は"いつも休みの日は家でゴロゴロしてるんだけど、あなたはどう?」

B「私"も"そうしています。」

というように、Aという人物の話した事柄についてBも同様にそうであると示したい場合に適切だろう。

「は」について述べるなら、

A「私"は"いつも休みの日は家でゴロゴロしてるんだけど、あなたはどう?」

B「私"は"よく外出しますね。」

といった具合に、AとBの述べた内容が違っており、ABそれぞれ「互いに関係なく自分についてのみ今述べた行動様式が成立する」というニュアンスを文章に含ませたい場合に使うのが良いと思われる。

例示が長くなったが、つまり過去の出来事やその場の状況、他の物事との関連を考えた上でそれに即した助詞を選択し、文章を構成していくことが「読みやすい文章」を作成するためには欠かせないということである。

 

3.着飾りすぎは必ずしも良いことではない

着飾る、つまり文章を豪華絢爛に書くということであるが、これは必ずしも良いことではない(ここで注意してほしいのは、これが絶対的に悪いことだとは私は全く言っていないということである)。

何が言いたいかというと、必要のない場面で文章をわざと難解に書きすぎるなということだ。以下に例を示してみる。

 

a.このような姿をお見せしてしまい、誠にお恥ずかしい限りです。

b.斯様な醜態を曝してしまい、甚も慚愧の念に堪えません。

 

aとbで言いたいことはだいたい同じなのだが、bは過度に文章を難しく書いている。「醜態」ぐらいならまあ大抵の人は読み書きできるだろうが、「慚愧の念(ざんきのねん)」「甚も(いたも)」などは普段あまり目にしない言葉だ。

これが小説で書かれた文章ならまだ良いだろう。何故なら、小説は文章の伝わりやすさも無論大事だが、表現技法としての言葉選び、文章全体の質感も同じぐらい大事であるからだ。例えば、もしも中島敦の『山月記』で急に「なんか俺気付いたら虎になっちゃっててマジビビったわ~」などという文章が出てきたら、前後の文章とのあまりのテイストの違いにこちら側がマジビビったわ~になってしまう。つまり、小説家がわざと難解に文章を書くことや、逆にわざと易しく文章を書くことにはある種の必要性があると推察される訳だ。

しかし、上の文章aとbが、普段の生活の場において何らかの謝罪を目的として作成されたものだとすると、bのようにわざと難解な言葉を用い、衒学的に書く必要性はどこにもない。aとbの文章と比較すると文章の最大の目的である「メッセージの伝わりやすさ」という点においてbの文章はaに大きな遅れを取っていると言わざるを得ないだろう。

まとめると、文章を豪華絢爛に飾り立てるのはある時はそれが表現の美しさを醸し出すが、場合によっては「伝わりにくく読みづらい、目的を果たせぬただ難しい言葉を並べただけの文章」になってしまうということだ。注意されたし。

 

4.最後に

かなり久々のブログ更新になり、テーマも「文章をうまく書くこと」などという極めて主観の入りやすいものだったので少し疲れた。

という訳で、最後にもう一度だけ今書いているこの記事を推敲したら、晴れてブログの更新である。ではまた。

 

追記

もう一度推敲したら誤字を見つけた。推敲は重ねるに越したことはないな。