流し読み

俺にまつわるエトセトラ

時間の流れとは

時が流れるというのはどういうことだろうか。我々は日常的に時計やスマートフォンの時刻表示などで時間を見ているし、あらゆる人は時の流れの中に生きている。時間というのは川の流れのように、いつも先へ先へと進んでいて止まることはない。考えるまでもなく当たり前のことである。しかし、僕はいつも思うのだ。時が流れるのは何故なのか。一年一年、一日一日、一秒一秒、時は確実に流れていて、我々は常に好むと好まざるとに関わらず「現在」を次の瞬間には「過去」へと変換され「未来」へと進まされる。当然その間に僕は老いていくし、僕を取り巻くさまざまな事象は変化を遂げるだろうし、世界の様相もどんどん移り変わってゆくだろう。今日はそんなことを少し考えてみることにしたい。

 

時間軸というのは、常に3つの要素によって構成されている。先ほども述べた「過去」「現在」「未来」だ。数学的に言えば(数学が非常に苦手なので誤りがあったらご指摘を賜りたい)、X軸のみが存在していて、Y軸とZ軸はそこにはない。つまり時間というのは1次元的な図の描き方で説明できる。要は1本の線だ。それの片方の端に「現在」があり、もう片方の端にその人が時間という概念の中に生き始めることになった契機、その人の生命誕生の瞬間があると仮定しよう。右端を現在、左端を起点と定義する。時間は起点から常に右へ右へと進み続けており、少なくとも今この瞬間までは進むことが可能でありつづけている。

では「未来」はどこにあるのか?そして、我々は自分が生まれる前にも時間が流れていたことを了解しているし、また死んだあとも恐らく流れ続けるであろうことも了解している。時間の流れというのは、如何にしてこのように我々に了解されているのだろう?

 

未来と時間の速度について

未来は、現在の先にある(とされている)ものだ。つまり先ほどの時間軸を持ち出すと、起点から右へ右へと進み続けている「現在」の先、もっと右に「恐らく存在していて、そして今後いつかそこが『現在』になりうるような点の集まり」が未来と言えるのではないだろうか。

こう考えると、未来というものがいかに不確かなものかがよくわかる。まず来るかどうかが分からない。そして、そもそも来るということは存在していることが前提になっている筈だが、未来の存在を実証しうる証拠は果たしてあるだろうか。こういうことを言うと、「これまで我々の人生には未来があり続けてきたんだからこれからもあるのは当然だ」という反論を受けることは予想できる。しかしだ。過去これまでそうだったからと言って、これから先も必ずそうであるという保証にはなり得ないのではなかろうか。

未来はこれまで「たまたま」連続して我々の人生に「現在」へと姿を変えて現れ続けてきたのであって、その「たまたま」がこれからも続くという保証は、少なくとも僕は寡聞にして知らない(もし未来が確実に存在するという確たる証拠を提示し、未来の存在を証明できうる方がいたら是非意見を賜りたい)。

そもそも、時間が流れるものであるとしたら、そこには確実に一定の「速さ」というものが存在する筈である。しかし、ここで一つ疑問を提示したい。

例えば、Aという人と、Bという人がいたとする。AとBの走る速度が全く同じと仮定すると、AとBが同時に10km/hで同じ方向に走った場合、Aから見たBの速度は(Aの主観から見て)0km/hである。同じ速度で走っているのだから、計測器でもない限りAから見ればBの速度はないものと同じだ。しかし第三者から見た場合、両者はどちらも10km/hで走っている。これは一体どういうことだろうか。Aから見たBの速度と、第三者から見たBの速度には、明らかに矛盾が生じている。しかしA、B、第三者の間にはこの時いずれも全く同じ時間が流れている筈であり、そして同じ時間に同じ速度で走っているにも関わらずその速度認識には違いがある。アインシュタイン特殊相対性理論によると、高速で移動する物体と停止している物体とでは、前者の方が時間の流れが若干遅いらしい。何が言いたいかというと、時間の流れは、条件Xと条件Yのもとでは速度がちがってくるのだ。

ここまでは物理法則における速度の話をしてきたが、これを今度は時間に当てはめてみる。例えば、退屈な授業を受けている時や労働をしている時と、友達と楽しく遊んでいる時とでは、同じ2時間でも体感として後者の方が短く感じられるのではないだろうか。文学でもよく「楽しい時間はあっという間に過ぎる」という表現が使われる。ここでも条件Xと条件Yのもとでは、時間(ここでは我々は高速で移動していないので認識にとどまっているが)の速度に差がついている。

 時間の体感認識の差は、「集中」によって生じるというのが僕なりに考えた結論だ。たぶん大方の人もそう思うだろう。物事に集中している時は時間認識は「速く」なるし、逆にしていない時は「遅く」感じられる。物理的側面における違いが「速度」であるならば、認識における違いはその「集中」の「強さ」だ。人間の心理には速度は存在しないのだから。人間の認識とは不思議なもので、時間の流れは一定である筈なのに先刻の物理的な例や心理的な面から見るとそこには細かな違いが発生している。

 

時間の流れの了解とは?

冒頭でも述べた通り、我々は自分が生まれる前も、死んだ後も時間が流れ続けるであろうことを了解している。しかし我々はその現場を見ることはない。ではなぜ、時間がこれまでもこれからもずっと流れ続けることを人間は承認しているのだろう?

 前章では、まず物理的側面から時間と未来について切り込み、それを心理的側面へと適用してみたが、本章では「こころ」の時間認識について迫り、それを深く考えてみることにしたい。なぜなら、時間そのものは物理的に流れるものとしての説明が可能だが、本章で考える時間の流れの了解において了解を「する」のは「人間」であって、人間が時間を認識するのは「こころ」によってだからだ。

 例えば、今朝僕はシャワーを浴びたが、これは僕が生きている間に起きた過去の出来事だ。僕は「今朝僕はシャワーを浴びた」ということを了解している。シャワーを浴びていたその時はそれが「現在」だったが、この記事を書いている今この瞬間においてはもうそれは「過去」の出来事だ。そもそも、この「シャワーを浴びた」という過去の出来事はどこへ行ったのだろう?今この瞬間僕はシャワーを浴びていないが、仮に明日の朝が来たとしたら僕は恐らくシャワーを浴びるだろう。では、今朝の「シャワーを浴びた」という出来事は未来へ行ったのか?というと、これは違うだろう。未来の事象はまだ現段階に於いては不確定であって、過去がそのまま未来へと移動するなどという現象はありえない。

過去の出来事は、全てが「過去」というカテゴリに例外なく分類され、それは時の流れの法則に従い「終わったもの」として今この瞬間我々に認識されている。過去は、冒頭で出した時間軸の左側に存在しているのではなく、もはや「認識」においてのみ我々の心の中にあるのだ。それが証拠に、歴史の教科書でよく何年にこんな出来事があって云々という記述があって、我々はそれがあったことを認識しているが、実際にそれを(例えば関ヶ原の戦いを)見たという人はいないだろう。それを「現在」として認識したことのある人間が既にみな死んでいるからだ。しかし僕はそんな出来事があったということを「こころの中の認識」として知っている。過去は、時間軸のこれまでにあるのではなく、我々の認識の中にのみ存在していると考える。つまり、極端な話、仮に我々が過去を認識しなければ、過去は存在しないし、そもそも人間がみな地球上から死に絶えれば、過去を認識する存在がなくなるわけだから過去はなくなってしまう。

では、「未来」はどうか。僕は間違いなく運がよくてもあと数十年、運が悪ければ次の瞬間にでも死ぬだろうし、それは読者諸賢も変わらない。死というものは、生命に義務付けられている必然の行く末なのだから。しかし、おそらく僕が死んだあとも時間は流れ続けるだろうし、これを読んでいる読者の皆さんが死んだあとも時間は恐らく流れ続けるだろう。だが、これについて明確な根拠を示せと言われると、なかなか難しいのではないだろうか。「過去」についてはそれをこころの中で認識することでその存在を証明できるが、「未来」はそもそも「未だ」「来ていない」と書いて未来と読む通りまだ不確定なものであって、認識ができない。「神はいるのか」という問いと少し似ている。

未来の存在了解については、我々人間はただ「何となく」了解しているにすぎず、来るかどうか分からないので、これを証明せよというのはまさしく悪魔の証明である。存在しているかどうかが不確定なものを何となく承認しているというのは、よく考えてみれば何とも不思議な話だ。この「何となく」を支えるものが、歴史である。「今までそうだったんだから、これからもそうだろう」という頼りない予測のもと、我々は未来の存在を何となく了解しているのだ。

 

おわりに

本記事では、「過去」「現在」「未来」と時間を三つの区分に分けて考えた。途中からこれを書いている現在が過去へと変化していくことを認識し続け不思議な感覚に陥ったが、拙いながらも書き上げることができ嬉しく思う。

これから先の「未来」が、少なくとも僕と僕の知人全てに、たとえ不幸なものでも幸福なものでも、途切れることなく訪れることを願う。過去を認識し続け、避けられない死とそこへ向かうまでに降りかかるであろう様々な理不尽を享受し続けることが、人生というものなのだから。