流し読み

俺にまつわるエトセトラ

いつか死ぬ

当たり前だが、人は皆いつか死ぬ。僕が生きているうちに不老不死の技術でも開発されれば別だが、今のところは出来ていないようだ。ほんの少し前に自分の意志とは無関係にこの世に生を受け、そしてたちまち死んでしまう。人間とは、そのようにできている。

お金を儲けたから何だと言うのだろう。それでも死んでしまう。懸命に勉強したから何だと言うのだろう。それでも死んでしまう。恋人ができたり、結婚をしたからと言って何だと言うのだろう。それでも死んでしまう。生きているうちに何をしたって、いずれは死に、死後暫くは自分の成したことや生きていたことを覚えている人はいるだろうが、やがて誰も自分のことを覚えていない時が来るだろう。そして、いつかは地球も、太陽系も、銀河系も、この広大な宇宙も、そのすべてがなくなるであろう。

僕は、一方では「死にたい」と思いながらも、また一方では、「死にたくない」とも思っている。死んだら、生きてゆくことの苦しみからは永遠に解放されるだろうが、その代わりに、この僕という一人の人間が、永久にこの世から消え去って、二度と生き返らない。死んだらもう故郷の山河を眺めることも叶わないし、新たな本を手に取ってその世界に耽溺することもできないし、そしてこのように僕が考えたことを書き残しておくこともできない。どちらが正しい選択なのだろう。答えはまだ見つからない。

 

「未来」という言葉がある。大辞林によると、未来とは「時の経過を三つに区分した一つで、これから来る時。将来。」だそうだ。時の経過の区分とは、過去、現在、未来の三つである。

未来は、本当に来るのだろうか。これから先も、時間が進み続けると、一体だれが保証したのだろうか。例えば今この文章を書いている次の瞬間にこの宇宙にある全てのものが跡形もなく消え去ってしまう可能性が0だと、一体だれが保証できるだろうか。「未来」はそもそも、「未だ」「来ていない」のだ。先のことなど、寸毫たりとも分かるものではない。逆に、もしかしたら不老不死の技術が開発されて僕は死なないかもしれないし、地球も宇宙もなくならないかも知れない(科学的には地球の寿命はあと約何億年、太陽の寿命はあと約何億年と予測がされているらしいので可能性は限りなく低いが)。しかし、現段階に於いては、少なくとも僕がいつか死ぬのは生物の原理として絶対に避けられない宿命である。

自分がいつか死ぬという避けられない現実に絶望し、どうにかして死を殺せないかと考えたが、無駄なことだった。いくら考えたところで、僕が死ぬのは変わらない。僕だけではない。僕の家族も友人も、この文章を読んでくれている方々も、雑踏を行く人々も、例外なく皆いつか死ぬし、あらゆる物体や物質、地球、太陽、宇宙もいつかはなくなる。すべてがなくなる。

 

読者諸賢は、宇宙の広大さに思いを馳せたことはあるだろうか。夜の星空を眺めていると、あの黒洞々たる空の彼方に、遥かな宇宙が広がっているのだと、やけに感傷的な気分に駆られる。宇宙から見れば僕は、僕から見たピロリ菌にも満たないほどにちっぽけな存在で、そして長くてもあと80年、短ければ今日にでも死ぬ。全く、一体、どんなにか恐ろしいことだろう。僕のこの貧相な身体はいつか灰燼に帰し、心も、五感も、何もかもがなくなる。僕という存在の終焉が、いつか必ず訪れる。いつか誰も僕のことを知らない時代が必ず来る。そして、死んだあとどうなるのかは、誰も知らない。