流し読み

俺にまつわるエトセトラ

自信

自信とは何か。「自分を信ずる」と書いて自信である。僕は自分を信じていないので、当然自信もない。自己評価が低いと周囲の人には言われるが、僕は自分の自己評価を正確なものだと思っている。でもそこにも自信はないので、自己評価よりも他人からの評価に言動を大きく左右される傾向が非常に強い。芯のない人間だなぁと自分でも思う。

自分を信ずるにはどうすればいいのか。惟うに、過去の人生に於ける自己を肯定しうる体験の積み重ねの結果として顕在化してくるのが「自信」というものではあるまいか。何でもいい、例えば勉強ができて褒められたとか運動が得意で褒められたとか、そんな些細なことでいい。そういったことの蓄積がやがて自信のある人格の形成を促す。つまり、自信をつけるには周囲の人の協力が不可欠である。

僕は親からあまり褒められない子供だった(父は仕事で単身赴任していてあまり家におらず、母は弟ばかり褒めていた)。やがて小学校に入った。学校の試験ではいつもトップクラスだったが、母は「良くできたね、でも…」と必ず何処かにケチを付けたがった。母がたまに僕を褒めるときは、必ずその後に「でも」が付いた。弟は手放しで褒められていた。テストの点数は僕より30点から40点も低いのに。

小学校では虐められた。曰く、「勉強ばかりしていて調子に乗っているのに痩せていて少しからかうとすぐ泣くから」だそうだ。成人式で僕を虐めていた奴らに会った。彼らは全く覚えていないようだった。

不思議なもので、否定され続けると最初は「なぜ俺が」と思っていても徐々に「俺が悪いのかな…」と考えるようになる。同じことを繰り返し説かれるとやがてその思考に自分が染められてゆくのだ。洗脳と同じである。

そうして、自分を信じられなくなる。蓄積がないのだから、当然だ。大きくなってから慌てて成功体験を積み重ねても、幼少期程の効果はないように感じる。

そして気が付けば大学受験に失敗し、留年し、毎日を怠惰に過ごし、将来の展望もなく、何も産まず、何も積み重ねず、ただ時間を浪費して日々が過ぎていった。自信など、もう心のどこにもない。

自信のなさは、態度にも出る。普段僕と接している人なら何となく分かるかとは思うが、常に周囲の顔色を窺って、オドオドとどこか所在なげな態度だ。胸を張って歩くことができない。いつも猫背で、光のない目をしている。自分はこの世界に必要とされていないような気がする。森山直太朗ではないが、「恋人と親は悲しむが3日も経てば元通り」だ。僕に恋人はいないので、僕が死んだとしてもせいぜい悲しむのは親と友人数名くらいだろう。

自信をつけようと、色々なことをした。ピアノを習った。勉強も頑張った。大学では友達を沢山作ろうとした。結果としてピアノは才能の違いを周囲に見せつけられ、勉強では受験に失敗、友達と思っていた人はこんな僕を見て離れていった。

 

僕は、自分を信じることができない。