流し読み

俺にまつわるエトセトラ

生きづらさ

自分の抱えてる生きづらさが最近ますます存在感を増してきている。生きるためのあらゆることが煩わしく、何もしたくない。大学にもあまり行っていないし、家でも何もせずにぼんやりしていることが多い。このままだと進級が危ぶまれるので、7月に入ったら気持ちを入れ替えて頑張ろうと思っていたのに、今日も自主全休してしまった。卒業できるだろうか……。

自分が今何のために生きているのかが分からない。強いて言うならば、今まで莫大なお金を俺にかけて育ててくれた両親の恩に報いるためだろうか(ということにしておく)。両親には感謝しているが、どうもその恩には仇を以て返す結果になってしまいそうで申し訳ない気持ちで一杯だ。

大学へ向かう時、家へ帰る時、ふと「今線路に飛び込んで電車に跳ねられたら明日から苦しまずに済むのだろうか」という考えが頭をよぎる。幸か不幸かまだ実行には移していないが……。死んだら実家のある街へ帰ってそこの土の中で静かに眠れると思うと、何やら甘美な響きだ。

何事にも過敏な自分の性向が嫌になる。小さなこと(だと周囲の友人には言われる)でずっとクヨクヨ悩み、考え込み、そしてまた自分を否定する。その繰り返しだ。もう少し、良い意味で馬鹿に(つまり、些細な物事は気にしない性格ということ)生まれていたらもっと楽しく人生を謳歌できたのだろうか……。

人生に意味のないことなんてない、という言葉を聞いたことがある。俺が今こうして鬱に苦しんでいることも、何か意味があって神様から与えられた使命なのだろうか。それも分からない。

人生が、仕事が、学業が、人間関係が、思うようにいかないなぁと満たされない気持ちを抱き続けていると、概ねその気持ちは二つの方向へ向かうように思われる。一つは「~できないのは、私のせいだ」と内罰的になるタイプで、もう一つは「~できないのは、この社会が、国が、自分ではない誰かが悪い」と他者へその原因を求めるタイプだ。前者は鬱になりやすい典型例と言えると思う。後者は、ともすれば社会への攻撃(通り魔・大量殺人など)へと向かいやすい危険さを孕んでいる。大事なのは、満たされない気持ちを抱いたときに「まあ、いいか」と上手く諦めることなのではないだろうか(しかしこれが非常に難しいのである。俺も一向にできるようにならず相変わらず苦しんでいる)。生きづらさを上手く解消できる人は、そういった諦め方がしっかりできている人なのだろうと思う。

俺も色んな事を諦めて過ごせたなら、もう少し楽になるのだろうか。