流し読み

どうでもいいこと

温泉と父

僕の実家がある町には、小さな温泉がある。幼少期からよく行っていたように記憶しており、今でも帰省するとたまに連れていかれる。

小学校に入るか入らないか位の頃から、父に連れられて時折温泉へ出掛けた。臆病な子供だった僕は、当時まだ風呂で頭を流すときに目をつぶるのが怖くて仕方なかった。そういう時はだいたい母に洗ってほしい旨を告げて解決していたような記憶がある。父は洗う力がやや強く、また子供心に少し怖さを感じる存在であったこともあり、あまりそういったことは頼まなかった。父は身長が180cmを越える非常に大柄な男で、かつ筋肉質な体つきをしているから、単純な大きさだけでも小学校低学年の僕にとっては畏怖の対象だったということをどうかご理解いただきたい(母も女性としてはかなりの高身長だが)。

父と温泉に入ると、横で体を洗う父の腕や足は丸太のように見えて、生来痩せっぽちの僕はいつも目を見張った。語弊があるかも知れないが、あまりのサイズの違いにとても同じ人間だとは思えなかった(当時の僕は自分が成長し、やがてニキビだらけの冴えない青年になるという自覚が全くない)。父は温泉に行くとよく僕に「お前も背が伸びてきたなぁ、大きくなったなぁ」と言ったが、小学生の僕が怪訝な顔をしていたことは言うまでもない。暑がりでこらえ性のない僕がすぐ温泉を出ようとするので、100数えるまで上がるなと父が言い、熱くて逆上せそうになる中もぞもぞと数字を唱えた。

 

大学生になってから久々に父と二人で温泉へ出掛けた時のことである。横で昔のように体を洗う父と、僕の頭の位置はほぼ変わらなくなっていた。父の短く刈り込んだ頭にはあの頃なかった白髪が目立ち、胡麻を振ったようになっていた。昔は弁当箱のような四角い顔にいつも厳めしい表情ばかり作っていたが、50歳を過ぎたあたりからすっかり愛想のいい「おじさん」になった。

昔と変わらず痩せている僕の手足を眺めて「相変わらず細いなあ、ちゃんと東京で飯食ってるのか」と父に言われたが、十数年前に比べると父も少し小さくなったように感じた。

父と二人で温泉に浸かる。やっぱり頭の位置は変わらない。父の「大きくなったなぁ…」は、昔よりもしみじみと聞こえるようになった。もう、あの頃のように僕が100を数える声が温泉の天井に響くことは二度とない。