雑記帳。

色々書いていく

教育格差への僻み

以前このブログでも取り上げた通り、俺は北海道の片田舎で生まれ育った。小さい頃はまわりの世界が全てだったし、地元の1学年1クラスしかない小さな小学校に通うことにも、バスにしばらく乗らないと塾へ(塾と言っても東京にあるような上等なやつではない)行けないことにも、あまり疑問を持っていなかった。中学高校と地元の公立を卒業し、大学受験を経て上京して、俺は衝撃を受けた。この国には、中学受験をすること、家から歩いて数分のところに質の高い教育を施してくれる塾があること、附属校からエスカレーター式に大学受験を経ずに(正確には面接試験や内部進学のための考査などがあるらしいが)有名私立大学(典型的なのは早慶MARCHの類だろうか?)へ入学できること、これらが当たり前という世界が存在していたのだ。

それだけではない。北海道では私立高校は公立高校の滑り止め、もしくは私立高校というものは町にないというのが一般的な価値観だが、東京では逆に私立高校が公立高校よりも上なのだ。東京のお金持ちの家庭に生まれた子供は、小さい頃から高いお金を払って質の高い塾へと通い研鑽を重ね、大学附属の中高一貫校に入学するもよし、私立の進学校(御三家とかあるらしいね、よく知らないけど)に入学するもよしという環境を生まれながらにして与えられるのだ。俺は激しく憤り、悔しさと羨望を隠せなかった。俺だって東京に生れていたら、俺だって中学受験で大学の附属校に入学できていたら、俺だって東京の優秀な塾に通うことができていたら……etc。仮定の話をいくらしたって現実は変わらないので仕方がないし、一流の人間は環境に文句など言わず淡々と結果を出すのだろうから、俺が言っているのは所詮は三流の人間が垂れ流す僻みに満ちた唯の恨み言に過ぎない。それは分かっている。分かっているが、しかし言わずにはいられないのだ。

それと同時に、もうひとつ嫌な、最高に性格の悪い自分が浮上してくる。今の大学へ入学してから、前述のような環境に育った人を見るたびに「お前らは東京に生まれて質の高い教育を中高と施されてきた、俺は田舎に生まれお前らに比べると恵まれているとは言えない環境に生きてきた、でも入学した大学は同じだ、俺の方が努力した、俺の方が勝っている」というこれ以上ないほど醜い考えが頭に浮かんでくる。実際は何一つ彼らに勝っている要素などないというのに。いわゆる自己の正当化だ。内在的なコンプレックスを拭い難いがために、自分を仮初でも優位に見立てて心を満足させているのだ。一体、何という醜さだろう。そもそも人を勝ち負けや経歴でしか計れない狭量さがもう人としてどうかしている。

しかし、首都圏に生まれると、私立高校は入試日程が被らなければ幾らでも受けられるし、周囲の意識の高さも段違いだ。俺はそれが羨ましくて仕方がない。

高級な塾に通いながら勉強をサボって遊んでばかりいる子供たちへ。その環境がそんなにどうでもいい、面倒臭いなら、俺にくれ。なぜそれだけ恵まれた環境にありながら呆けたように日々を送っている?俺にその環境を、時間を、お金を、くれ。