流し読み

俺にまつわるエトセトラ

『豊饒の海』の衝撃

だいぶ前にこのブログで、三島由紀夫の『豊饒の海』四部作の第一部『春の雪』を紹介した。あれから随分と長いこと経ち、四部作全てを読了したので、その衝撃的な最後について少し書きたい。以下にネタバレを多分に含むので注意。

 

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)

 

 

豊饒の海』四部作は、本多繁邦という一人の男の前に現れる『春の雪』で紹介した松枝清顕の生まれ変わりたちが織り成す生と死、輪廻転生の壮大な物語である。第一部『春の雪』で現れた松枝清顕は「恋」に、第二部『奔馬』で現れる飯沼勲は「義」「使命」に、第三部『暁の寺』で現れるジン・ジャンは「肉」「欲望」にそれぞれ突き動かされ、運命という名のもとに自然につかみ出されいずれも20歳でその生を終える。たいていの読者は、ここまで読んだら「では最後の第四部で出てくるであろう生まれ変わりは、どのようなものに突き動かされ運命に翻弄されるのであろうか?」と期待するだろう(実際僕もそうだった)。しかし、第四部『天人五衰』のラストで、その全ては瓦解し、灰燼に帰する。

天人五衰』で出てくる生まれ変わり(?)は、安永透という16歳の少年である。彼の左の脇腹には、清顕にもあった三つの黒子がはっきりと見て取れた。本多は、ジン・ジャンの転生を透に賭け、彼を養子に迎えてその運命を変えるべく教育を始める。しかし――。

 

透は、本多の友人の久松慶子から、彼がなぜ本多の養子に迎えられたか、そして本多の囚われている生まれ変わりの話を全て打ち明けられる。透の、自分は密かに選ばれた人間だという矜りは、木端微塵に砕かれる。人間に例外などいないのだ。歴史に例外も存在していないのだ。

この世には幸福の特権がないように、不幸の特権もないの。悲劇もなければ、天才もいません。あなたの確信と夢の根拠は全部不合理なんです。もしこの世に生れつき別格で、特別に美しかったり、特別に悪だったり、そういうことがあれば、自然が見のがしにしておきません。そんな存在は根絶やしにして、人間にとっての手きびしい教訓にし、誰一人人間は『選ばれて』なんかこの世に生れて来はしない、ということを人間の頭に叩き込んでくれる筈ですわ。」(本文中の慶子の言葉より引用)

本多は、透が彼自身の夢見ている運命に身をまかせていたら、きっと20歳で自然に殺されると予感して、彼を手許に置いて保護したのだ。彼を「どこにでもいる普通の青年」に叩き直すことで、彼を自然と運命から守ろうとしたのだ。つまり、彼を無理やりつかみ出したものは「恋」でも「使命」でも「肉」でもなく、本多と慶子というただの二人の老人と、自分は人とは違うという透本人の根拠のない認識だけであった。そんなことを、彼の矜りが許すだろうか。

透は毒を飲んで、自殺しようとする。彼が20歳の春であった。しかし、彼は死ねなかった。盲目にはなったものの、生きたまま21歳を迎える。

そして本多は、『春の雪』で紹介した、綾倉聡子へ会いに奈良へと旅立つ。しかし本多と対面した聡子は、本多へ向けてこう言い放つ。

「その松枝清顕さんという方は、どういうお人やした?」

彼女は、清顕のことを覚えていないのではない。初めから、清顕という人間のことを知らないのだ。

僕はこの一文を読んだ瞬間、頭をガツンと殴られたような衝撃を受けた。本多が長年にわたって囚われ続けてきた転生の物語は、そして清顕の存在は、全て幻想だったのだろうか?幻を見て生き続けた、本多の人生とは何だったのか?これまで読み進めてきた全てが音をたてて崩れ去ってゆくような、茫漠とした荒野の中に一人佇むような、果てしない虚脱感が全身を包んだ。

天人五衰』最後の部分を以下に引用して、この記事の結びにかえる。

この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。

庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……

 

豊饒の海』完。

昭和四十五年十一月二十五日