雑記帳。

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インターネット・SNSに於ける「陰キャラ」「陽キャラ」の概念についての考察

近頃Twitter2ちゃんねるを見ているとよく「陰キャ」「陽キャ」という単語を目にする。どちらも「陰キャラ」「陽キャラ」の略語であることは最早言うまでもないだろう。以前は、Twitter2ちゃんねるに於いては「リア充」という言葉が頻繁に用いられていたが、ここ数年で勢いがかなり澌尽礱磨したように感じる。そして、それを埋め合わせるかのように「陰キャラ」「陽キャラ」が取って代わったのだ。その原因、また「リア充」と「陰キャラ・陽キャラ」の本質的な違いとは何か。この二点について考察していきたい。

 

・そもそも「リア充」「陰キャラ・陽キャラ」の定義とは?

 まずは、これらの単語それぞれの定義付けを行うこととする。

始めに「リア充」。Wikipediaを参照すると、おおよそこのような記述がなされていた。以下に引用する。

 

概念自体は2005年頃に2ちゃんねるの大学生活板で成立しリアル充実組と呼ばれていたが、2006年初頭に今のリア充の形として使われ始めた。その後2007年夏頃からブログやtwitterでも流行した。(中略)

当初は、インターネット上のコミュニティに入り浸る者が、現実生活が充実していないことを自虐的に表現するための対語的造語だった。当時は友達が1人でもいればリア充とされた。その後、このニュアンスは、従来のネット文化に(触れずにいた事から)染まっていない、携帯電話を介したネットの利用者たちが流入するにつれ、彼らの恋愛や仕事の充実ぶりに対する妬みへと変化していった。

 

リア充という単語の出自は存外古いようで、今から12年前の2005年の時点では既に概念として成立し、大学生活板に於いて用いられ始めていたらしい(2005年当時の僕は2ちゃんねるを見ていなかったので実際に用いられていたかどうかに関しては追求の余地がある)。最初は比較的アンダーグラウンドな場で用いられていたが、やがてインターネットやSNSの普及、それに伴う2ちゃんねる用語の伝搬によって一般性を増したということが言えるだろう。

 

では次に「陽キャラ」「陰キャラ」の定義へ。以下にWikipedia引用。

陰キャラとは、陰気なキャラ(性格)の人のこと。陰キャラ・インキャとも。スクールカーストでは下位に属し、ともすればいじめ(ネットいじめ)の対象になりうる。 対義語として陽キャラという言葉も定着している。差別語。
「陰気なキャラ」を略して「陰キャラ」と称する。

TwitterFacebookなどのSNSを介して若年層の間で広く普及した俗語だが、出自は不明である。

 

リア充」がその人本人の実感として用いられるのに対して、「陰キャラ」は主に周囲からの評価がその基準になるという差が伺える記述である。また、「陽キャラ」は「陰キャラ」の対義語として「陰の逆なんだから陽でしょ」的な解釈のもとさらに後に誕生したということも分かる。

では、なぜ「リア充」がここ数年で「陰キャラ・陽キャラ」に取って代わられたのか。次章ではその原因について触れたい。

 

・なぜ「リア充」より「陰キャラ・陽キャラ」の方がここ数年で用いられることが増えたのか?

 前章では「リア充」と「陰キャラ・陽キャラ」の定義付けとその差の明文化を行った。次に本章では、その移り変わりの要因を探っていきたい。

前章でも触れたように、「リア充」は本人の実感、自分自身から見てどうかという「自己評価」が大きな基準である一方、「陰キャラ・陽キャラ」は主として他者からの評価がベースとなる。ここでどういう現象が生じるか。「陰キャラ・陽キャラ」が用いられる場合、他者からの評価を気にして周囲への受けを重視した行動をする、所謂承認欲求の肥大化が発生するのだ。

また、前章で引用したWikipediaの「陰キャラ」の記述にあったように、ここでは「スクールカースト」というものが重要になってくる。「リア充」が学校生活のみならず、その人の生活全般に於いて適用されるのに対して、「陰キャラ・陽キャラ」は主に学校でのその人の位置付けを決定するものとなることが分かる。

この差が意味するものは何か。それは、この10年ほどで、他者からの承認を得なければという承認願望が若年層の間でより強くなり、その結果として「周囲にウケる何か」を必死で模索しひたすら小集団の中で互いを認め合うことでその願望を満たそうとする、言ってみれば「内輪のノリ」という秩序がより強まったということだ。これが若者の行動をより最大公約数に近づけ、また小集団の中で互いを承認し合うという承認欲求の無限ループに陥らせる。これこそが「リア充」が「陰キャラ・陽キャラ」に取って代わられた要因である。

 

・「ありのままの自分」はどこか

では、周囲の受けばかりを気にして行動する者の「ありのままの自分」は一体どこにあるのだろうか。友達の間だろうか?それとも家族か?あるいはインターネット・SNS?どれも違う。

まず友達。友達という小さな人間関係の中では、互いに空気を読み合い、仲間の気に障りそうな言動を(例えそれが「ありのままの自分」らしさの発露であったとしても)極力控えるという関係性が目立つ。「友達」という立場を失い仲間はずれにされ「ぼっち」になるくらいなら、本音を表に出せなくても関係を続けようとしてしまうのだ。

次に家族。家族も友達と同様、その関係性・立場を失うことを恐れるあまり本音を表に出せないという事例を多く耳にする(僕の家庭もその傾向がある。そこまで強くはないが)。毎日接する家族という関係性であれば、その関係の破綻を恐れるのは友達よりも尚更である。

最後にインターネット・SNS。これなどはまさに承認欲求の大海のようなもので、「いかにして他人に(Twitterならフォロワー、Facebookならともだちだろうか)ウケるような投稿をして『いいね!』を貰い承認されるか」がテーマとなる承認不安社会たる現代の象徴的産物である。

そもそも、「ありのままの自分」をもし誰かに開示したとして、それを受け入れてもらえる確証はどこにあるのだろう。そう、どこにもないのだ。だからこそ人は恐れ、インスタントな承認を求め、承認不安社会が形成されるのだ。

一方では「ありのままの自分」を認められたいと切望しながら、もう一方では「ありのままの自分」を押し殺して周囲の空気に合わせその場の「ノリ」に迎合し行動をする。現代の若者の「ありのままの自分」は、一体どこにあるのだろう。惟うに、それは自己の中にしか存在し得ないものではあるまいか。本当の「ありのままの自分」を受け入れられる、認めることができるのは自分だけなのだ。

「人の気持ちになって考えなさい」。親、学校の先生、テレビに出てくる識者、ミュージシャン、etc…。皆がそう言う。いつも思う。そんなことは可能なのか。「人の気持ちを理解する」というのは、そんなに簡単なことなのか。

極論だが、例えば僕が人を殺したとする(くどいようだが無論これは例えで、実際の僕は人を殺したことはない)。その理由が、例えば「その人に長年苛められていた」とか「多額の借金をしていて、至急お金が必要だったので金持ちそうな人を殺して金品を盗もうと思った」とかならまだわかるだろう。しかし、例えば「人が血を流す姿に性的興奮を覚えるので」とか「食肉のため」となると、これを理解できるという人は一気に減るのではないか。人の気持ちを理解するならば、こういう人間の気持ちも、その人の立場に立って考えに考え抜き理解せねばならないのではあるまいか。

或いは、この文章を読んでいるあなたが誰かに苛められていたとする。あなたはその苛めている人の気持ちを理解しようと思うだろうか。その人の気持ちになって考えようとするだろうか。

人の気持ちを理解するとは、斯くも苦しく厳しいものなのだと、僕はそう思っている。ならば、本当の「ありのままの自分」を理解し受け入れられるのも、自分だけなのではないだろうか。

それはあまりに寂しいと言う人もいるかも知れない。しかし、例えそれが自分だけでも、この世界に「ありのままの自分」を受け入れ決して否定することのない人間が存在するということは、どれだけの救いになるだろうか。

あなたが空虚な承認のし合いに疲弊し、嫌気が差したとき、自分の心の中を振り返って「ありのままの自分」を受け入れてみて欲しい。きっと、少しは救われる気分になる筈だから。