雑記帳。

色々書いていく

私見・死について

言うまでもないことだが、人間は皆いつかは死ぬ。人間が生命である以上、死というものを避けて通ることはできない。死はいつか必ずやって来る、そしてそれが一体いつなのかは誰にも分からない。数十年先かも知れないし、もしかしたら明日かも知れない。これは考えれば考えるほど恐ろしいことだ。自分は一体いつ死ぬのだろうと考えて、恐怖で夜も眠れなくなるなんていう体験は、誰しも一度はあるだろう(無論私にもある)。人は、親しい者の死に接すれば悲しいし、自らの死を思えば恐怖にかられる。死という、人生の避けられない「終焉」に対して、我々はどのように向き合えばよいのだろうか。そんな、ともすれば重く感じられるテーマについて、乏しいながらも私見を述べてみたいと思う。

 

死というのは、人間存在の永久な終焉であり消滅である。私が死んだら、私は永遠にこの世界と再び関わることはないし、世界も二度と私の心身に対して何らの影響を及ぼすことはできなくなる。そして、死んだ後はどうなるのだろうか?宗教に於いては、死後の世界(例えば極楽や地獄といった)なるものがあると信じられているが、所詮は想像に過ぎず、その世界を実際に見た人間は一人もいない。では、死の向こうにあるのは絶対的な無なのかというと、これも違う気がする。なぜなら、我々は近しい人が死んだとき、彼或いは彼女がかわいそうだ、悲しいと思うからだ。もし死んだら全てが無に帰するとしたら、無を可哀想に思っているということになり、これはおかしい。つまり、少なくとも我々は、死の向こうに「何らかの存在としての死者」を認めていると言えよう。

では、この「何らかの存在」とは何だろうか。霊魂だとか何だとか、それらしい言葉は幾らでもあるが、それらの存在を認めうる物的証拠がない以上、これらを「何らかの存在」として認めることは難しい。散々言葉を並べたが、結局ここの部分ばかりは死んでみないと分からないのだろうと思う。

これからの我々に出来るのは、時々、たまにでいいから、死というものを心のなかに描きながら生きていくこと。あまり考えても楽しくはないだろうが、自分の人生に於いては避けられないものごとである以上、考えてみる価値はあるはずだ。ペットが死んだとき、身近な人が亡くなったとき、納得とまではいかないでも心に死を受け止めて、今まで生きて、そして死んでいった沢山の人々の死の上に自らが立っていることをよく感じて、今日1日を生きるのだ。そして、やがて必ず訪れる自らの死へと思いを馳せて、己の心身がいずれ永久に宇宙の隅から隅までに少しも残らず消えてしまうということをよく噛み締めて、死に向き合い、悩み、恐れ、そして死を見つめ考え続けていきたい。

 

なんだか自分でも何が言いたいのかよく分からなくなってしまって情けない限りですが、このブログを読んでくださった読者諸賢の心の隅にでも、水滴の一瞬のきらめきのような潤いを与えることが出来たならば、これほど喜ばしいことはありません。長々と拙文、失礼致しました。読んでくださった皆様、本当にありがとう。