流し読み

俺にまつわるエトセトラ

ハイライト

僕は喫煙者だ。最近の世の中は嫌煙の潮流があって少し肩身が狭いが、実際副流煙は非常に健康を害するから仕方ないことだろう。まあとにかく、今回は喫煙の害やらたばこ条例やらの社会的な話がしたくてこの記事を書いている訳ではないので、その辺のことについては触れない。

 

僕の一番頻繁に吸っている銘柄は断トツでハイライトだ。JT日本たばこ産業)の生産する純国産の煙草で、1960年の発売以来今日まで長く愛されている日本を代表する銘柄である。僕は現在、1日だいたい7~10本ほど吸うので、2、3日に1箱くらいのペースで買っている。値段は20本入りの1箱で420円。タール17mg、ニコチン1.4mgで、現在コンビニで売っている煙草の中では重い部類に入ると言えよう。

ハイライトという名前は、hi-liteと綴る。「もっと陽の当たる場所」という意味らしい。発売された1960年は、4年前の1956年には経済白書に「もはや戦後ではない」と記された高度経済成長の真っ只中にあり、そうした世相を反映した名前であることが窺い知れる。

最近よくある煙草の箱のタイプは、いわゆるボックスタイプとか呼ばれるものだ。セブンスターの箱なんかが典型だろう。箱の上部に蓋がついていて、そこをパカッと開く方式だ。何本か吸った後だと、この箱の中にライターを入れておくことが可能なので便利である。しかしハイライトの箱は、今時少し珍しいソフトタイプだ。ボックスタイプのような厚紙ではなく、普通の柔らかい紙で出来ている。このタイプの箱は、上の銀紙の真ん中を横断するような形でオビがついていて、そのオビで分けられているどちらかの銀紙の折り目がついた部分をビリビリ破いて開ける。よく言われるのは、銀紙の折り目が「人」の形(つまり左の紙が上)ではなく、「入」の形(右の紙が上)になっている側を開けるというものだ。元々は水商売の世界に存在していたやり方のようで、「人」を破くのは失礼だからという理由らしい。こじつけかも知れないが縁起がいいので、僕もそれに倣っていつも「入」の側を破くようにしている。
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手元にあったハイライトを撮影。右が「入」で、左が「人」の形になっているのがお分かりいただけるだろうか


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そして、この箱のデザイン。まさしくシンプルイズベスト。昭和の香り漂う、何とも渋くて格好いいものではあるまいか。俗にハイライトブルーなどと呼ばれる色彩で、新幹線の色を決めかねていた国鉄の職員が、会議室でハイライトの箱を見てこの色にしたという逸話もある。ちなみに、デザインは『三谷幸喜のありふれた生活』のイラスト等で知られる和田誠である。僕はこの箱のデザインが大好きで、以前絵に描いたこともあるぐらいだ。僕が海に憧れていたというのも、この青色に惹かれた理由かも知れない。このへんの煙草の箱デザインの話については、また今度詳しく書きたいと思っている。

 

と、ここまで箱の話を延々としてきたが、やはり一番の問題は味である。どんなに綺麗な箱の煙草でも、肝心の味がまずければデザインで感じた喜びは雲散霧消だ。以前アメリカンスピリットを買ったとき、箱に描かれたネイティブアメリカンの絵を見て「中々どうしてハイカラな雰囲気でいいじゃないか」なんて思ったが、どうも味の方は、少なくとも僕は好きになれなかった(アメスピが好きな方を否定するつもりは一切ありません。単に僕個人が苦手な味だったというだけです)。煙草の味も人によって色々好き嫌いがあるから、煙草を吸おうかなと考えている方は、まずコンビニで売っているものを幾つか適当に吸ってみるといい。

話を戻す。さてハイライトの味だが、(僕個人としては)コンビニの煙草ではやっぱり一番美味しく感じられて大好きだ。高度経済成長期に最も売れた煙草の名は伊達ではない。

ハイライトに火をつけてゆっくり吸い込む。鼻と口に拡がる独特の芳醇な香りは、ラム酒でつけられているものだ。これが非常にいい味を出している。ふわりと漂う甘味と、仄かな酸味(これがもしガツンと感じられたら吸い込む勢いが強すぎる証なのでもう少しゆっくり吸い込もう)に、自然と頬が綻ぶ。基本いつ吸っても美味いのだが、特にお酒を飲みながら吸うともう堪らない。同じく僕の好きなビールをぐびりと一口、そしてハイライトを吸い込む。至高だ。喫煙者の読者諸兄、ハイライトを是非ともお試しあれ。

 

悪夢

自分の身体から血が抜けていく。だんだんと身体が冷たくなっていくのが感じられる。深い海の底へ底へと沈んでいくような、そんな気持ちがする。どうやら俺は死ぬらしい。そんなことを考えたあたりで死ぬ。そんな夢を見た。

 

 

自分の布団に他の誰かがいる。どういう怨恨か知らないが、俺は包丁を持っていて、その人(暗くて誰だかよく分からない、辛うじて和服の女性だということだけは分かったがそんな人には全く覚えがない)に何度も突き刺す。ねばねばした血が腕や顔へとかかるのがよくわかる。女性は何も言わぬ。ただ死んでいく。そんな夢を見た。

 

 

自宅の天井に何か大きな生き物が張り付いていて、凝然と俺を見ている。何なのかは分からない。それを見ようと思って振り向いた瞬間に死ぬ。そしてまた自宅へと戻っている。何度も振り向いて、何度も死ぬ。そんな夢を見た。

 

 

どこだかはさっぱり分からないが、とにかく俺は超高層ビルの屋上にいる。遥か下には、歩く人々の姿がゴマ粒のようにポツポツと見える。誰かが俺の背中を押す。俺は真っ逆さまに落ちていく。風が身体を切り、ビョウビョウと大きな音がする。当然頭が重いから、脳天を下にして落っこちていく。地面に当たる瞬間に目が覚める。そんな夢を見た。

 

 

眼鏡の中年男性(見覚えはない)にひたすら怒られている。どういう理由なのか全く分からない。とにかく怒られている。「お前はそんなんだから駄目なんだ」と、どこかで聞いたことのあるような言葉を耳にした。目覚まし時計の音が、説教と俺の心に溜まってきた怒りを打ち破った。そんな夢を見た。

 

 

どこまでも歩いている。先は見えぬ。ひたすら一本道を歩いていく。まわりは畑なのだが、何故か時計を栽培していて、生えている時計の針が俺が歩くのと同じようにガッチャガッチャと動く。空は曇っている。そんな夢を見た。

 

 

 自分の夢が分からない。

あの頃

小学生の頃、田舎に住んでいた。近所の森にヒグマやシカが出たり、バスが一日に来る本数が一桁だったり(今調べたら一日上り下りともに7本だった)、庭にキツネが出たりするくらいの田舎である。鉄道は走っていない。コンビニは一番近いところで、坂道を20分くらい上ったところにあった記憶がある。僕は12歳までそこで暮らし、小学校を卒業すると同時に現在実家のある町へと引っ越し、大学入学を機に上京して今に至っている。

田舎の暮らしは、今思うと不便なことも色々あったが、当時はそこそこ楽しかった。学校の休み時間は図書館で読書に耽り、放課後は塾(バスでしばらく行ったところにあった)がない日は昆虫を捕まえて遊んでいた。あの頃は大きなクワガタムシを捕まえることが男子生徒みんなの夢であり目標のようになっていたから、僕も夏の夜になると父に頼んで一緒に公園の白熱灯を見に行っていた。特にミヤマクワガタが人気だったと思う。今でも夏になると、ついつい神社の傍の街灯などを見に行ってしまうのは当時の思い出が誘蛾灯となって僕をおびき寄せているからなのだろうか。

 

小学校の給食で、一番人気なのは揚げパンだった。あれが出る日はおかわりのジャンケンをする生徒の目がとても真剣だった。しかし、僕は揚げパンが苦手だった。砂糖がべたべたしていて、どうにも好きになれなかったのだ。揚げパンを欲しがるクラスメイトと、何か他のおかずをトレード(北海道弁で言うと「ばくりっこ」)してもらって腹を満たすのがいつものことだった。

小中学校は給食制だから、間食ができないのが非常に苦しかった思い出がある。特に中学生の時はキツかった。男子中学生の胃袋なんていうのは底なし沼のようなもので、食べても食べても腹が減る。朝食はいつもおかわりをしていたのだが、4時間目になるといつも腹がグウと鳴ってたいそう恥ずかしかった。高校に入ってからは購買でパンやお握りなんかを買えるようになったし、食事を学校に持ち込むこともできたので随分助かったものだ。

 

運動会の時、毎年のように校庭で竜巻が起こるのには閉口した。原因はいまいち分からないのだが、なぜか毎年昼過ぎになると発生した。弁当が砂利だらけになるし、ビニールシートや傘なんかが飛ばされて裏の田んぼに突っ込み泥だらけになったりする。運動の苦手さと相まって、運動会はいつも大嫌いだった。

当時を振り返ると、かなり小規模な運動会だったなあと思う。生徒の数が少ないので仕方ないが、どの種目もあっという間に終わる。一番時間がかかったのは100メートル走だろうか……。

 

汚い話だが、冬になるとつららをよく食べた。登下校の道にある家の屋根からよくつららが垂れているので、それを折ってボリボリ食べるのだ。いい水分補給だとあの頃は思っていたが、そのうち汚さに気づいてしなくなった。

雪もよく食べたが、これも同様の理由でしなくなっている(酔っ払っていると今でもたまにやってしまうけど)。

 

 近所に、何歳か年上の女の子が住んでいた。僕がまだ小学生だった頃に、彼女は中学校へ入学した。制服を着た彼女は、何故かとても遠いところへ行ってしまったような感じがして、以前のように一緒に遊ぶことに変な気後れを感じてしまった。その後、僕は引っ越し、彼女もどこか別の町へ引っ越し、風の噂で上京したようなことを聞いたが、現在何をしているのか、どこに住んでいるのか、元気にしているのか、今となっては何も分からない。引っ越してから、一度も会ったこともない。あの女の子は、どこへ行ってしまったのだろうか。もう二度と会えないと知っていながら、それが心のどこかに引っ掛かって仕方がない。

 

昔僕が住んでいたあの小さな町は、諸々の理由で今は誰もいなくなってしまったようだ。一度だけ見に行ったが、熊笹の向こうに見える昔の家は朽ち果てていた。草木に蝕まれ、陽の光に照らされ、雪に押し潰され、少しずつ森へと還っていくように思えて、戻らぬ少年の日々に茫漠とした悲しみと儚さを覚えてならなかった。

 

あの頃を思い出すにつけ、薄明の色彩に混濁した少年の日々の、砂子のような小さく静かなきらめきを偲ばずにはいられない。皆さんはどうだろうか。

時間の流れとは

時が流れるというのはどういうことだろうか。我々は日常的に時計やスマートフォンの時刻表示などで時間を見ているし、あらゆる人は時の流れの中に生きている。時間というのは川の流れのように、いつも先へ先へと進んでいて止まることはない。考えるまでもなく当たり前のことである。しかし、僕はいつも思うのだ。時が流れるのは何故なのか。一年一年、一日一日、一秒一秒、時は確実に流れていて、我々は常に好むと好まざるとに関わらず「現在」を次の瞬間には「過去」へと変換され「未来」へと進まされる。当然その間に僕は老いていくし、僕を取り巻くさまざまな事象は変化を遂げるだろうし、世界の様相もどんどん移り変わってゆくだろう。今日はそんなことを少し考えてみることにしたい。

 

時間軸というのは、常に3つの要素によって構成されている。先ほども述べた「過去」「現在」「未来」だ。数学的に言えば(数学が非常に苦手なので誤りがあったらご指摘を賜りたい)、X軸のみが存在していて、Y軸とZ軸はそこにはない。つまり時間というのは1次元的な図の描き方で説明できる。要は1本の線だ。それの片方の端に「現在」があり、もう片方の端にその人が時間という概念の中に生き始めることになった契機、その人の生命誕生の瞬間があると仮定しよう。右端を現在、左端を起点と定義する。時間は起点から常に右へ右へと進み続けており、少なくとも今この瞬間までは進むことが可能でありつづけている。

では「未来」はどこにあるのか?そして、我々は自分が生まれる前にも時間が流れていたことを了解しているし、また死んだあとも恐らく流れ続けるであろうことも了解している。時間の流れというのは、如何にしてこのように我々に了解されているのだろう?

 

未来と時間の速度について

未来は、現在の先にある(とされている)ものだ。つまり先ほどの時間軸を持ち出すと、起点から右へ右へと進み続けている「現在」の先、もっと右に「恐らく存在していて、そして今後いつかそこが『現在』になりうるような点の集まり」が未来と言えるのではないだろうか。

こう考えると、未来というものがいかに不確かなものかがよくわかる。まず来るかどうかが分からない。そして、そもそも来るということは存在していることが前提になっている筈だが、未来の存在を実証しうる証拠は果たしてあるだろうか。こういうことを言うと、「これまで我々の人生には未来があり続けてきたんだからこれからもあるのは当然だ」という反論を受けることは予想できる。しかしだ。過去これまでそうだったからと言って、これから先も必ずそうであるという保証にはなり得ないのではなかろうか。

未来はこれまで「たまたま」連続して我々の人生に「現在」へと姿を変えて現れ続けてきたのであって、その「たまたま」がこれからも続くという保証は、少なくとも僕は寡聞にして知らない(もし未来が確実に存在するという確たる証拠を提示し、未来の存在を証明できうる方がいたら是非意見を賜りたい)。

そもそも、時間が流れるものであるとしたら、そこには確実に一定の「速さ」というものが存在する筈である。しかし、ここで一つ疑問を提示したい。

例えば、Aという人と、Bという人がいたとする。AとBの走る速度が全く同じと仮定すると、AとBが同時に10km/hで同じ方向に走った場合、Aから見たBの速度は(Aの主観から見て)0km/hである。同じ速度で走っているのだから、計測器でもない限りAから見ればBの速度はないものと同じだ。しかし第三者から見た場合、両者はどちらも10km/hで走っている。これは一体どういうことだろうか。Aから見たBの速度と、第三者から見たBの速度には、明らかに矛盾が生じている。しかしA、B、第三者の間にはこの時いずれも全く同じ時間が流れている筈であり、そして同じ時間に同じ速度で走っているにも関わらずその速度認識には違いがある。アインシュタイン特殊相対性理論によると、高速で移動する物体と停止している物体とでは、前者の方が時間の流れが若干遅いらしい。何が言いたいかというと、時間の流れは、条件Xと条件Yのもとでは速度がちがってくるのだ。

ここまでは物理法則における速度の話をしてきたが、これを今度は時間に当てはめてみる。例えば、退屈な授業を受けている時や労働をしている時と、友達と楽しく遊んでいる時とでは、同じ2時間でも体感として後者の方が短く感じられるのではないだろうか。文学でもよく「楽しい時間はあっという間に過ぎる」という表現が使われる。ここでも条件Xと条件Yのもとでは、時間(ここでは我々は高速で移動していないので認識にとどまっているが)の速度に差がついている。

 時間の体感認識の差は、「集中」によって生じるというのが僕なりに考えた結論だ。たぶん大方の人もそう思うだろう。物事に集中している時は時間認識は「速く」なるし、逆にしていない時は「遅く」感じられる。物理的側面における違いが「速度」であるならば、認識における違いはその「集中」の「強さ」だ。人間の心理には速度は存在しないのだから。人間の認識とは不思議なもので、時間の流れは一定である筈なのに先刻の物理的な例や心理的な面から見るとそこには細かな違いが発生している。

 

時間の流れの了解とは?

冒頭でも述べた通り、我々は自分が生まれる前も、死んだ後も時間が流れ続けるであろうことを了解している。しかし我々はその現場を見ることはない。ではなぜ、時間がこれまでもこれからもずっと流れ続けることを人間は承認しているのだろう?

 前章では、まず物理的側面から時間と未来について切り込み、それを心理的側面へと適用してみたが、本章では「こころ」の時間認識について迫り、それを深く考えてみることにしたい。なぜなら、時間そのものは物理的に流れるものとしての説明が可能だが、本章で考える時間の流れの了解において了解を「する」のは「人間」であって、人間が時間を認識するのは「こころ」によってだからだ。

 例えば、今朝僕はシャワーを浴びたが、これは僕が生きている間に起きた過去の出来事だ。僕は「今朝僕はシャワーを浴びた」ということを了解している。シャワーを浴びていたその時はそれが「現在」だったが、この記事を書いている今この瞬間においてはもうそれは「過去」の出来事だ。そもそも、この「シャワーを浴びた」という過去の出来事はどこへ行ったのだろう?今この瞬間僕はシャワーを浴びていないが、仮に明日の朝が来たとしたら僕は恐らくシャワーを浴びるだろう。では、今朝の「シャワーを浴びた」という出来事は未来へ行ったのか?というと、これは違うだろう。未来の事象はまだ現段階に於いては不確定であって、過去がそのまま未来へと移動するなどという現象はありえない。

過去の出来事は、全てが「過去」というカテゴリに例外なく分類され、それは時の流れの法則に従い「終わったもの」として今この瞬間我々に認識されている。過去は、冒頭で出した時間軸の左側に存在しているのではなく、もはや「認識」においてのみ我々の心の中にあるのだ。それが証拠に、歴史の教科書でよく何年にこんな出来事があって云々という記述があって、我々はそれがあったことを認識しているが、実際にそれを(例えば関ヶ原の戦いを)見たという人はいないだろう。それを「現在」として認識したことのある人間が既にみな死んでいるからだ。しかし僕はそんな出来事があったということを「こころの中の認識」として知っている。過去は、時間軸のこれまでにあるのではなく、我々の認識の中にのみ存在していると考える。つまり、極端な話、仮に我々が過去を認識しなければ、過去は存在しないし、そもそも人間がみな地球上から死に絶えれば、過去を認識する存在がなくなるわけだから過去はなくなってしまう。

では、「未来」はどうか。僕は間違いなく運がよくてもあと数十年、運が悪ければ次の瞬間にでも死ぬだろうし、それは読者諸賢も変わらない。死というものは、生命に義務付けられている必然の行く末なのだから。しかし、おそらく僕が死んだあとも時間は流れ続けるだろうし、これを読んでいる読者の皆さんが死んだあとも時間は恐らく流れ続けるだろう。だが、これについて明確な根拠を示せと言われると、なかなか難しいのではないだろうか。「過去」についてはそれをこころの中で認識することでその存在を証明できるが、「未来」はそもそも「未だ」「来ていない」と書いて未来と読む通りまだ不確定なものであって、認識ができない。「神はいるのか」という問いと少し似ている。

未来の存在了解については、我々人間はただ「何となく」了解しているにすぎず、来るかどうか分からないので、これを証明せよというのはまさしく悪魔の証明である。存在しているかどうかが不確定なものを何となく承認しているというのは、よく考えてみれば何とも不思議な話だ。この「何となく」を支えるものが、歴史である。「今までそうだったんだから、これからもそうだろう」という頼りない予測のもと、我々は未来の存在を何となく了解しているのだ。

 

おわりに

本記事では、「過去」「現在」「未来」と時間を三つの区分に分けて考えた。途中からこれを書いている現在が過去へと変化していくことを認識し続け不思議な感覚に陥ったが、拙いながらも書き上げることができ嬉しく思う。

これから先の「未来」が、少なくとも僕と僕の知人全てに、たとえ不幸なものでも幸福なものでも、途切れることなく訪れることを願う。過去を認識し続け、避けられない死とそこへ向かうまでに降りかかるであろう様々な理不尽を享受し続けることが、人生というものなのだから。

書評『一房の葡萄』

今回はかの有名な文豪、有島武郎の書いた童話『一房の葡萄』を取り上げる。これは僕が最も好きな小説のうちのひとつで、初めて読んだ小学生の時からいつ読んでも変わらぬ輝きと、独特の、タイトル通り葡萄のような切ない酸っぱさを感じさせる、沢山の方に読んでいただきたい小説だ。著作権が切れて青空文庫にアップロードされているので読んだことのない人はGoogleで検索してぜひ読んでみて欲しい(下記URL参照)。短い童話なので15分もあれば読めると思う。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000025/files/211_20472.html

 

 

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)

一房の葡萄 他四篇 (岩波文庫)

 

 あらすじ

この小説は、有島本人の体験に基づいて書かれたと言われており、横浜英和学校に通っていた少年時代の彼自身がモデルになっているそうだ。

主人公の「ぼく」は引っ込み思案で無口、友達もいない。彼は唯一絵を描くことが好きだった。学校の行き帰りに見える横浜港の風景の美しさを彼はいつも絵にしようとしたが、彼の持っている粗末な絵の具では、あの透き通るような海の藍色と、船の水際近くに塗ってある洋紅色がどうしてもうまく出せなかった。

「ぼく」のクラスメートのジムという男の子が持っている絵の具は舶来の上等品で、とりわけ藍と洋紅は驚くほど美しかった。「ぼく」はそのジムの絵の具がほしくてほしくてたまらなかった。

ある秋の日、「ぼく」は一人教室にいた昼休みの時間、ジムの藍と洋紅色の絵の具を盗んでしまう。しかしすぐにバレて、クラスメートに職員室へ連れていかれ、大好きな美人の女の先生の前で絵の具を盗んだことを告白させられてしまう。涙に暮れる「ぼく」を前に、先生はクラスメートを部屋から帰らせて、「ぼく」に庭の木に実っていた一房の西洋葡萄をくれる。

翌日になって「ぼく」が学校へ行くと、ジムが真っ先に笑顔で飛んできて「ぼく」を女の先生のところへ連れていき、そこで二人は仲直りをするのだ。そして先生は、ジムと「ぼく」にまた一房の葡萄を半分に切り分けてプレゼントしてくれた。

「ぼく」はそれから少しはにかみ屋でなくなり、いい子になった。しかし、大好きだったあの先生はどこへ行ってしまったのだろうか。秋になると葡萄の実は美しい紫の色彩を見せるが、それを受け止めた白い美しい手はどこにも見つからない……。

葡萄が本作品に於いて果たした役割とは

本作のタイトルは『一房の葡萄』である。先生は「ぼく」が盗みを犯したことを知っても叱責せず、ただ一房の葡萄を下さって、そしてジムと仲直りしたあとにもう一度葡萄を二人に下さる。葡萄が本作品に於いて極めて重要なアイテムとなっていることに異論をはさむ余地はないだろう。では、有島はこの作品で、葡萄にどのようなメッセージを込めたのだろうか。

まず、葡萄という果物は秋(8月下旬から10月くらい)が一般的に旬とされている。というわけで、まず一つはこの物語で語られる季節が秋であることを示している。まあこれはさして重要なことではないだろう。では、文学的側面から見て、葡萄が本作に於いて果たした役割とは何か。

この小説は、大人になった「ぼく」が、かつての少年時代の記憶を一人回想するという形を取っている。そして、そこで出てくるのが葡萄なのだ。葡萄は彼にとって、学校での孤独で惨めな日々からの大きな転換点と、そして何より憧れの美しい先生とのかけがえのない思い出の象徴であると言えるのではないだろうか。もう二度と戻らぬ幼き頃の日々。そして二度と会えないであろう先生への忘れがたき追憶。そうした、少年から青年へ、そして大人へと成長していくにつれ懐かしく思え、どうしようもなく胸を締め付けられるような時の流れへの切なさ。そういった、誰しもが経験しうる幼少期の思い出の象徴として用いられたのが、本作での葡萄だったのだ。「ぼく」にとっての、いわば現代で言うところの少年時代のキャッチフレーズのようなものだろうか……。

人生は、時の流れは、常に先へ先へと流れてゆき、数瞬の間も止まることはない。少年の日々も、決して戻ることはない。「ぼく」はその後先生と再会することはなかっただろうし、「ぼく」のその後についても何も語られてはいない。そうした切なさ、大切な人との別れをこれほど見事に描写した小説はなかなかないのではなかろうか。

そして、何よりも僕が良いと思うのは、ここで選ばれた果実が葡萄であったという点だ。これが林檎や蜜柑だったら、これほどの名作にはなっていなかったろう。葡萄という果実の甘酸っぱさ、それが「ぼく」の絵の具を盗んでしまったという罪への罪悪感と、先生との別離という切なさのメタファーになっているのだ。また紫色の色彩も良い。紫という色は、得てしてマイナスなイメージを抱かれがちである。有島はそれを逆手に取り、罪を犯した罪悪感や、少年の日々への追憶、もう二度と会えない先生との思い出、そういったどこか悲しみを感じさせる要素を葡萄の色彩によって際立たせているのだ。

幼き頃の思い出を振り返りたい方、あの頃にしかなかった純粋な悲しみ、思い返して蘇る切なさ、そういったものをもう一度味わいたい方、是非ともこの小説を読んでいただきたい。切に願う。

 

 

学生野球の投手球数制限について

先日、首都大学野球連盟が投手の球数制限のガイドラインを導入するというニュースを見た(下記URL参照)。第1戦に先発した投手は、121球以上を投球した場合、翌日の第2戦では50球以上の投球を禁止するという、投手の故障リスクを少しでも減らそうとする画期的な取り組みだと思う。

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180302-00000049-spnannex-base ※リンク切れ

 

ただ、このガイドラインには罰則がなく、場合によっては(優勝や降格・昇格のかかる試合等)エース級の投手に連投を強いるようなチームが出てくるかも知れない。無論首都大学野球連盟は国内有数の強豪ひしめく大学野球リーグであるからして、各大学とも選手層は厚いから、そのようなケースは少ないだろう。しかし、他のリーグではどうだろうか。

恐らく日本国民の間で最もよく知られている大学野球リーグは、東京六大学野球連盟だろう。早稲田、慶応、明治、立教、法政、東大の六大学が春と秋に勝ち点制でリーグ優勝を争う、日本一の歴史と伝統を誇る大学野球リーグだ。僕もよくテレビやスマホアプリ等で観戦している。しかし近年このリーグを見ていて思うのは、故障する投手が非常に多いということだ。一体なぜなのか。

東京六大学野球連盟では、球数制限は導入されていない。これは別に日本の大学野球リーグでは珍しいことではないが(だからといってこれに問題がないわけでは全くない)、更にもうひとつ問題点がある。昇降格の制度がないことだ。東京六大学野球連盟東都大学野球連盟首都大学野球連盟と違って、一部の最下位チームと二部の優勝チームが入れ替え戦を行い昇降格を決めるというシステムが存在しない。そもそも二部自体がないのだから。

これによって生じる問題とは何か。大学間での選手層の差によって、選手層の薄い大学や、選手層の薄い年ほどエース級の投手の連投に頼らざるを得ないという事態が発生する。例えば、東京六大学野球連盟の万年最下位チームとして知られる東京大学は、昨年秋リーグの対法政戦で15年ぶりの勝ち点を上げたが、この2試合でエースの宮台康平投手(日本ハムのドラフト7位指名でプロ入り)は第1戦に先発し9回を121球で2失点完投、翌日の第2戦も6回からリリーフで登板し試合終了まで60球を投げ切った。2日間の合計の球数は181球である。これで更に中5日で次の試合が控えている。勝負が第3戦までもつれて、そこで登板の機会があれば中4日だ。一方、去年の秋リーグ優勝校である慶應義塾大学の投手陣を見てみると、その様相は全く違う。例として2017年秋リーグの慶東戦3試合を挙げてみるが、慶応は3試合とも違った投手が先発登板し、東大がエースの宮台投手を先発させてきた第1戦は落としたものの、残りの2試合は早々に相手先発をノックアウトし勝ちを収めている。選手層の差によって、このように投手陣にかかる負担というのは全く異なってくることがよく分かるだろう。

ここ数年は、早稲田大学の投手にも故障が目立つ。斎藤佑樹、吉永健太郎、小島和哉などなど…。いずれの投手も甲子園で輝かしい実績を残した選手だが、高校時代からの酷使と、大学に入ってからの更なる酷使(どうも早稲田大学野球部は私大のわりに選手層があまり厚くないようだ)によって潰れてしまった。斎藤はプロ入りしたがパッとせず、吉永は大学時代の後半から完全に壊れ社会人野球では野手へ転向、小島はまだ在学しているが投手成績は1年の頃と比べると見る影もない。早稲田大学野球部は、2017年秋リーグは東京大学野球部と並んで同率最下位に沈んだ。適切なコーチングのもと、投手の酷使を避けつつ復活への道を辿ってほしい。

 

そもそも、大学に野球でのスポーツ推薦で行くような学生投手はだいたいが高校時代に甲子園、もしくは地方大会での酷使に遭っている。高校時代からの酷使のツケが回ってきて大学に入ってから怪我をする、というのはよくある話だ。高校野球はトーナメントの一発勝負、となればエースを先発させるのは致し方ないことかも知れない。しかし、その酷使によって投手の将来を潰してしまっては元も子もない。強豪私学ならともかく、公立高校の野球部ともなればエース級の投手を何人も用意するのは至難の業だ。エースへの負担は、ますます増していく。大会が佳境へと入るにつれ、連投に次ぐ連投を強いられる。先程名前を出した斎藤佑樹などは、2006年夏の甲子園でなんと69回を一人で投げ抜いた(これは一人の投手が投げたイニングとしては大会記録)。沖縄水産高校の大野倫投手は、かつて夏の甲子園で決勝まで全試合を投げ抜き、肘の骨を折って投手生命を永久に絶たれた。トーナメント制という高校野球のシステムは、確実に投手の肩や肘の寿命を縮めている。また問題なのが、日本人はどうもこういう「意気に感じて」とか「根性」とかで疲労や痛みを我慢して投げ続ける、というエピソードが大好きな人が多いということだ。特に中年以上の男性や、高野連の理事会。大事なのは、感動と悲劇の物語の中で死するエース像よりも、選手一人一人の将来であることを忘れてはならない。

高校野球でも球数制限を導入してはどうかという意見も最近よく浮上するようになったのは良いことだと思う。しかし一方で、それではますます強豪私学と公立の格差を広めるだけだという声も聞かれる。他にも、トーナメントではなくリーグ戦形式にするのはどうか、休養日をもっと増やすのはどうか等の活発な議論が交わされている。高校3年生の夏ともなると、大学受験や就職のことも考えねばならないので、あまり大会に多くの時間は取れない。トーナメント形式が抽選や会場の確保その他を鑑みて一番時間がかからないので現状こうなっているのだろうが、果たしてこの形式は本当に正しいのか。今後も議論の余地がある問題である。

ゴジラ映画の不思議な現象

前回と打って変わって今回は完全に趣味の話。まだ小さい頃、かの有名な東宝の映画『ゴジラ』シリーズに随分ハマっていた記憶がある。しかし、このシリーズには独特の法則(或いはお約束というか製作上の都合というか)があり、今思うと少し奇異なものであった。まあそもそも扱ってるモノ自体が奇異なんだけど。

 

話を進める。全ての始まりは1954年に東宝によって製作・公開された映画『ゴジラ』である。この映画は非常に傑出した作品で、反核反戦をテーマとした怪獣映画の一つの金字塔とも言えるものだ。

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初代『ゴジラ』のポスター

 

実際国内外を問わず評価は総じてとても高く、上映当時は渋谷の東宝映画館が2時間待ちになったという話もあるほどだ。渋谷東宝の封切り動員だけでも961万人に及び、当時の日本国の人口から換算するとおおよそ10人に1人はこの封切り動員で『ゴジラ』を観たことになるという。なんだこれは、たまげたなぁ…。

あらすじは皆さんもだいたいはご存知、若しくは予測がついているだろうが、一応ざっくりと説明しておく。繰り返される水爆実験によって古代の生物が突然変異を遂げた怪獣「ゴジラ」が東京を襲い、破壊の限りを尽くす。そして最後には芹沢大助博士(演・平田昭彦)の発明した兵器「オキシジェン・デストロイヤー」によって倒され、海中へと没して白骨死体と化してゆく、という感じだ。じかに核や空襲の恐怖と悲劇を味わった頃の日本人が作った映画だけあって、反核反戦映画、パニック映画としての見応えはまさしく白眉である。皆さんも是非一度は観てみてほしい。

 

さて、このように初代『ゴジラ』は興行的にも社会に与えた影響的にも大成功を収めた傑作だった訳だが、これ以降のゴジラシリーズではこの初代『ゴジラ』が脚本に大きな影を落とすことになる。次にその話をしていこう。

初代『ゴジラ』以降、東宝は1975年の『メカゴジラの逆襲』まで合計15本の映画を出している(いわゆる昭和ゴジラシリーズ)。この段階では、1954年の初代ゴジラの内容を踏まえた脚本が各作品でなされているのだが、問題はこの昭和シリーズが終わったあとに発生する。昭和ゴジラシリーズにも色々触れたい部分はあるのだが、話がずれる上に冗長になるのでそれはまた別の機会に。

 東宝1984年末に平成vsシリーズのスタートとして『ゴジラ』を封切る。ここでタイトルに挙げた不思議な法則、現象が発生する。なんと、昭和ゴジラシリーズは初代ゴジラ以外全てが「なかったもの」として設定され、ゴジラが東京を襲うのは1954年以来だとされたのだ。新たなステージへとシリーズを持っていくためには仕方のないことなのかも知れないが、どうにも首をひねらざるを得ない。

この現象は更に続く。1991年の『ゴジラvsキングギドラ』では、未来からやって来た時間遡行者によって歴史が改竄され、ゴジラがいた歴史そのものが「なかったこと」にされてしまう。そして、何故か再びここでゴジラが現れる(原潜が事故ったか何かが原因らしい)。おまけに、キングギドラゴジラに倒された後に、今度は正義の未来人が倒されたキングギドラをメカキングギドラに改造してゴジラを倒そうとする超展開。84年の『ゴジラ』から間に『ゴジラvsビオランテ』を1本挟んでいるとはいえ展開がややこしいわ!映画自体はゴジラ誕生の秘密が明かされたり迫力満点の特撮バトルシーンの連続でなかなか良かったけど

まだある。1995年、平成ゴジラvsシリーズは『ゴジラvsデストロイア』をもって完結する。ゴジラの死を描いた、ファンにはなかなか胸にこみ上げるものがある映画ではないかと思うが、まあそれはいい。問題なのはこの後だ。1999年、東宝は新たにゴジラ・ミレニアムシリーズと銘打って『ゴジラ2000 ミレニアム』という映画を封切る。ここでまたリセット現象が発生するのだ。1954年の初代ゴジラ以外の出来事は再び「なかったこと」にされる。そしてここからミレニアムシリーズがスタートするのだ。新たなシリーズに移行する時はリセットしなきゃいけない決まりでもあるのか?

そしてミレニアムシリーズに入ると、リセットの回数は劇的に増加する。続く『ゴジラvsメガギラス』では、いきなり訳の分からない設定がされる。何と、初代ゴジラがオキシジェン・デストロイヤーによって殺されたという歴史が「なかったこと」にされ、ゴジラは過去に何度も日本を襲っており、挙げ句の果てには日本の首都は大阪になっているとかいうトンデモ展開だ。これもうわかんねぇな…。更にその次の『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』では再びリセット現象が発生。ゴジラは初代以外は全ていなかったことになっている。そしてさらにその次の『ゴジラvsメカゴジラ』でまたしてもリセット。何回この手法続けるんだよ!アメリカの名物レビュワー「AVGN」ことジェームズ・ロルフ氏の言葉を借りよう。「初代は金塊、他は全部クソとでも思ったのか?」

4連続でゴジラをリセットするのは流石に如何なものなのか。これで映画が面白いならまだ良いのだが、個人的には正直先に挙げたミレニアムシリーズは『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』以外はそんなに面白くない(あくまで僕の個人的見解なので面白いと思う方がいたら悪しからず)。特に『ゴジラvsメカゴジラ』は子供心にも正直観てて退屈だった(父親と映画館行きました)。自衛隊メカゴジラ取り戻す戦いとかどうでもいいからゴジラをもっと出せよな、ゴジラ見たくて映画館まで行ってるんだから。まあ続編の『ゴジラ モスラ メカゴジラ 東京SOS』はまあまあ面白かった(内容は様式美って感じは否めなかったけど)からそこで差し引き0か…?『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』は僕が初めて観たゴジラ映画だったので多少の補正はあるかも知れないが、古代神話に絡めた展開や、見た目も行動もファンによく「シリーズ史上最凶」と言われるほど凶悪な怨霊の如きゴジラの恐怖、(公開された2001年当時としては)目覚ましい特撮技術等、観ている者を飽きさせない要素が盛り沢山だ。是非とも観てみてほしい。余談だが、ゴジラシリーズ最凶と言われるゴジラ(太平洋戦争で戦死した人々の怨念が乗り移った破壊神という設定らしい、だから人々を容赦なくブッ殺そうとする)の出演する、人がバタバタ死にまくるこの映画を、東宝はよりにもよってハム太郎映画との同時上映で放映した。ハム太郎目当てで観に行った子供の反応は想像に難くない。こんな同時上映考え付いた奴誰だよ

そして、2004年に放映された「ゴジラ FINAL WARS」では、何と過去に放映された全てのゴジラ映画の出来事が「あったこと」にされている。今度は設定復活させるのかよ…(困惑)。しかも舞台は現在ではなく遥か先の未来ということになっている。もう訳が分からん。まあ映画自体は怪獣がドカドカ出てきてなかなか胸熱なのでそれでいいか

最近話題を呼んだ『シン・ゴジラ』についてだが、僕は観ていないのであまり講釈を垂れることは出来ない。しかし、ポスターや予告編等で目にしたゴジラの造形にどうも違和感を感じる。これは僕が幾分か昔のゴジラ映画ばかり観ていたからだろうが、ゴジラは背中からビームは出さないし、あんなに赤黒い色彩はしていない(ゴジラはグレー、もしくは黒い体色が基本だ)し、放射熱線はビルを突き抜けることはあっても切断はしない(ビルを切断するような光線を出すのは大映ガメラ映画のギャオスだ)し、何よりゴジラは集合体生物ではない。読者諸賢、こういうことをベラベラ言うのが老害、もしくは悪いタイプのオタクなのだろう。『シン・ゴジラ』ファンの方々、申し訳無い。

 

総論に入る。初代『ゴジラ』は傑出した作品であったが、その幻影に東宝は追われ、新シリーズ製作ごとにリセット現象を発生させるようになってしまう。悪いことばかりだとは言わないが、その都度ストーリーを理解し直さなくてはならないのが欠点だ。製作側からすると過去作を初代ゴジラ以外無視して都合の良いように脚本できるので便利な手法なのかも知れないが、どうにも釈然としない。僕が気にしすぎなのか?

この手法がファンに与える利点としては、リセット現象が発生するたびにこれまでの作品群と違った見た目や背景を持つ新たなゴジラを存分に観賞できる、つまり飽きづらくなり新鮮味が映画それぞれに出てくるという点が挙げられるだろう。

東宝が生み出した不朽の名作シリーズ『ゴジラ』は、初代のあまりに素晴らしい脚本や映像、特撮の数々に後の作品群が影響され、「都合がいいから」という理由のもとリセット現象が相次ぎ、結果としてファンを混乱させることとなった。そのことによる功罪は相半ばするといったところだろうが、もう少しスムーズに脚本を進めることは出来なかったのだろうかという一抹の疑問に駆られる。今後、東宝で新たにゴジラ映画が作られるかどうかは分からないが、なるべく前作の内容を踏襲したものとして脚本を進めていってほしいと、一ファンとして切に願う。

最後に、僕なりのおすすめゴジラ映画トップ5を紹介して、結びに代えたいと思う。

1位 『ゴジラ』1954年公開

2位 『ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃』2001年公開

3位 『モスラ対ゴジラ』1964年公開

4位 『ゴジラ FINAL WARS』2004年公開

5位 『ゴジラvsデストロイア』1995年公開

読者諸賢、とりあえず見てみてくれ。ガメラ映画やウルトラマンシリーズについてはまた今度機会があれば取り上げます。