流し読み

俺にまつわるエトセトラ

アサガオと夏の話

小学生の頃にアサガオを育てた経験は、誰しも一度はあることだろう。夏の朝に、露を纏ったアサガオの花が咲いたのを初めて見たときの純粋な感動は、私の懐かしき幼少の思い出である。

アサガオ花言葉は「はかない恋」「固い絆」「愛情」だそうだ。「はかない恋」は花が短命であることから、「固い絆」は支柱に蔓をしっかりと絡ませることが由来となっているそうである(「愛情」の由来は調べても出てこなかった)。個人的には、最初の「はかない恋」がアサガオの爽やかで儚げなイメージとマッチして最も好きな花言葉だ。

アサガオは、ヒマワリと並ぶ著名な夏の花である。暖色の花弁でエネルギーに溢れ、力強さを感じるヒマワリに比べると、アサガオは些か地味かも知れない。しかし、そのひそやかな美しさ、儚い輝きが私の心を捉えてならない。

 

夏という季節には、他の季節にはない特別な何かがあると思う。それは風鈴の音色であったり、うだるような暑さであったり、そしてノスタルジアであったり……。私の貧弱な語彙ではうまく説明できないが、強烈なエネルギーの裏に隠された空虚さ、物悲しさのようなものが夏という季節を形作っているように思われる。不思議なもので、ネガティブな意味の単語は夏と合う(と私には感ぜられる)。夏と死、夏と孤独、夏と寂寥、夏と空虚さ……。

もうすぐ夏がやって来る。今年の夏は、どんな日々が私を待ち受けているのだろうか。

書評『池袋通り魔との往復書簡』

 突然だが、読者諸賢は「池袋通り魔殺人事件」を御存知だろうか。もし知らない人がいたら、この先の文章が読みづらいと思われるので、まずここに概要を示すこととする。1999年9月8日、池袋サンシャイン60通り東急ハンズ池袋店前で起きた通り魔殺人事件である。犯人の造田博(ぞうた ひろし/新聞配達員・当時23歳)は、東急ハンズ池袋店前で通行中の人々に包丁と玄能を用いて突如襲い掛かり、2人を殺害、6人を負傷させる大惨事を引き起こした。その後造田は、殺人・殺人未遂・銃砲刀剣類所持等取締法違反・傷害・暴行の罪で起訴され2007年に死刑が確定した。本書は、その造田と著者との間で交わされた25通の書簡を通じ、この事件とその後にも続く無差別殺人事件の連鎖と、その背後に蠢く社会病理を解き明かす内容となっている。以下ネタバレを含むので注意。

 

池袋通り魔との往復書簡 (小学館文庫)

池袋通り魔との往復書簡 (小学館文庫)

 

 

池袋という土地は今こそ栄えているが、近世江戸の頃には辻斬り、近現代に至れば俗に言う「スガモプリズン」としてA級戦犯の処刑を行った巣鴨拘置所と、きな臭い土地柄だ。そして、事件はそんな池袋の白昼、サンシャイン60通りで起きた。右手に包丁、左手に玄能を持った造田は「むかついた!ぶっ殺す!」と叫ぶと同時に、通行人へと襲い掛かる。詳しい犯行の様子は本書を読んでもらえればわかると思うので省くが、残虐極まりない殺戮が行われた。死者2名。負傷者6名。いずれも造田とは面識も何もない人々で、まさしく通り魔と呼ぶにふさわしい犯行であった。

造田は現行犯逮捕。しかし、やがて始まった裁判で、造田の口から事件について語られることはほとんどなかった。代わりに彼の思いを雄弁に語り得たのは、手紙だった……。

著者は、造田の公判中耳にした、造田が友人に宛てた手紙の中の一文に驚きと興味を感じる。

「造田博教を作りました」

この文章の真意を突き止めたいと考えた著者は、東京拘置所収監中の造田へ「造田博教の中身について教えてほしい」と手紙を送る。これが著者と造田との文通の始まりとなった。

造田の手紙も、かなりの内容が本文中に記載されている。だが、正直いずれの手紙を読んでも、文章として何を言いたいのかが見えてこない。日本語にはなってはいるのだ。しかし、著者の問いかけに対する返答であったり、「造田博教」の中身であったりの話になるとよくわからなくなってきてしまう。文章としての総意が掴めないのである。そして、彼のどの手紙にも必ず出てくる二つの文。

「この手紙は私の思った事を適当に書いただけなので、あまり深刻に考えないで下さい」

「ボールペンで消している所があります」

自分が責任を取るのが余程嫌なのか、手紙の内容については「深刻に考えないで下さい」と冗談交じりにして責任を逃れる。一方では、完璧主義者なのか、ボールペンでミスした部分を塗りつぶしたことについて弁解をする。自分が傷つくことを何よりも恐れる姿は、今の若者にも通ずるものがあるのではないだろうか。SNSが発達し人と人との繋がりが希薄になった現代に於いて、大事なのは責任の所在よりもまず自分が傷つかないこと。傷つかないために予防線を張る。傷つかないために人と接しない。傷つかないために表面上は「仲良しのふり」を続ける。傷つかないために……。皆さんも、一度は身に覚えがあるのではなかろうか。

そして、著者から手紙で事件のこと、それがもたらした被害について質問されると、彼はたちどころに妄想の世界へ逃げてしまう。以下本文の造田の手紙より抜粋。

 

「私が事件を起こしたのは無言電話(※本ブログ筆者注・事件の5日前に造田の携帯にかかってきたいたずら電話のこと。造田はこれに激怒し犯行を思い立ったという)で日本にたくさんいる人にたまたま頭にきての事です。私の携帯電話に無言電話をかけてきたのも日本にたくさんいるような人です。頭に来たのは日本にいてわからない事(仕事中トイレに行けない、仕事で大酒に付き合わされるとか。)がそれまでにもたくさんあった事もあります。造田博教に書いてある事と事件とは関係ないですが、いくらかは関係あったと思います。私が事件の事をどう受け止めているのかは、事件の事は反省していますと前にたぶん書いたと思います。」

 

その後著者がこの手紙で出てきた「日本にたくさんいるような人たち」「日本にいてわからない事」の解説を手紙で求めても、明確な返答はなかったという。

自分に都合が悪くなると、内面の世界へと逃げ込む。そこにいれば、理屈に合わないことも正当化できるし、目を背けたいことは見なくて済む。しかし、いくら目を背けたって、現実はそこにあるし、それでも日は昇るのだ。

 

「私は事件の被害者の人の言う事を聞かないでいいと思っています。むちゃくちゃな言い分を含むという事です。私は事件の被害者の人へは裁判で決められた金額に沿うように払えばいいと思います。決められた金額以上は払わないでいいと思います。」(造田の手紙より抜粋)

 

なるほど妄想の世界は居心地が良いだろう。しかし、それはあくまで妄想に過ぎないのだ。見たくない現実から必死に目をそらしても、現実は変わってはくれない。天国のような妄想の世界と、思うようにいかない現実とのギャップ。そこに行き着いた時、通り魔は社会へと牙を剥いた……。

2017年5月現在、造田は東京拘置所に収監されている。

運動音痴

運動音痴だ。幼少の時分から、運動会は唾棄すべき対象であったし、体育の徒競走はいつも最下位だった。私の強烈な肉体的劣等感は、このような体験に起因すると思われる。体が弱く、同級生にモヤシとからかわれることも多かった。子供は残酷だ。私のそういう肉体的繊弱さは、容易に苛めの対象たりえた。小学生の頃に、私の顔色が青白いからという理由で苛めっ子の同級生からお化けと呼ばれていたことを、私は今でも克明に記憶している。恐らく私をそう呼んでいた彼らは、今となってはそんなことなど覚えてはいないだろう。

こういった少年が、周囲を密かに見下し自己を特別視することで自尊心を守ろうとするのは、読者諸賢も想像に難くない筈だ。所謂ネットで言われている中二病的なものだが、私にもそんな時期があった。私のためだけに用意された荘厳たる使命が此の世界の何処かにあるような気がしていた。

最近、ランニングをしている。適度な運動で健康を保とうとするという目的の他に、もうひとつの狙いが存在している。小さい頃からの肉体的劣等感を少しでも克服し、その引け目の解消を以て自信を得ようというものだ。これからも続けたい。もしかしたら次に同期の友人と会ったときには私の肉体的変化に彼らは驚愕するかも知れないなと考えて、密かにほくそえんでいる。

書評『春の雪』

記念すべき書評1冊目は、三島由紀夫の長編四部作『豊饒の海』の第一部、『春の雪』である。以下ネタバレを含むので注意。

 

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

 

時は大正。 主人公の松枝清顕は、明治維新の功臣を祖父に持つ侯爵家の嫡子。そしてヒロインの綾倉聡子も、伯爵家の深窓の令嬢。二人とも、所謂「名家」のお坊ちゃまお嬢様だ。この二人の悲恋をスキャンダラスに描き切ったのが本作である。正直なところ、題材としてはかなりありきたりなものだと言えよう。しかし、そんなありきたりな題材も三島にかかれば、ここまでの美しい物語へと昇華される。

とりたてて私が好きなのは、主人公の清顕である。この清顕という少年は、基本的にかなりめんどくさい。そして思春期特有の女性への悩ましさに溢れている。何しろ、恋い焦がれている聡子に自分が女慣れしていない童貞だと馬鹿にされるのが嫌で、わざわざ「俺はもう経験済みだ!」なんていう嘘を書いた手紙を聡子宛に送りつけたりするのだ。他にも、松枝家にやってきた留学生に「内心では『へえ?君はその年で、一人も恋人がいないのかい?』と馬鹿にされているんじゃないか?」と被害妄想にかられたり、更にはその留学生へ「きっと近いうちに彼女を紹介するよ」と彼女なんかいないのに虚栄心からそんなことを言ったりと、序盤はまあ読んでて苦笑いしてしまうような言動が目立つ。聡子のことが好きなのに、うまくアプローチできないもどかしさ。聡子に弄ばれてばかりの自分と、己が心を波立たせる聡子への苛立ち……。アンビバレントな感情に苛まれる少年を三島は見事に描写している。

そして物語はクライマックス。綾倉家に宮家との縁談話が舞い込んでくる。当時はまだ宮家の威光は圧倒的な時代。断ることなど出来はしないのだ。清顕と聡子の恋路は、こうして破滅が運命付けられてしまう。

ラストシーン。病に冒されながらも清顕は、出家を決意した聡子に一目会おうと奈良まで向かう。しかし、逢瀬を果たせぬまま、失意のうちに友人の本多に連れられ東京へ戻る。清顕の最後の台詞。

「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」

豊饒の海』の主題とされた夢と転生、その念が滲む言葉をラストに持ってくるのが何ともニクい。三島文学という大海原を心行くまで旅したくなる、そんな一冊の紹介でした。

最初の記事、及びブログ開設に至った経緯とこのブログの内容について。

ブログを始めた。物ぐさな人間である私が果たして定期的に更新を続けることができるのかという点は甚だ疑問だが、とにかくやれるだけやってみたいと思う。

 

抑々ブログ開設に至った経緯だが、これは至極単純な話である。私が大学で所属しているサークルの友人に勧められたからだ。更新を怠っては、せっかく開設を勧めてくれた彼の私に対する信用にも関わろう。そう考えると、身が引き締まる思いだ。

 

ブログの内容について。主に書評、日常のあれこれ、諸々の考えたことなどを纏める場になろうと思われる。特に書評は力を入れていきたい所存である。

 

拙い文章の羅列にはなってしまうだろうが、どうぞお許し願いたい。これからよろしく。