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雑記帳。

色々書いていく

精神科に関して

精神科に通院していると言うと、何やら脳に恐ろしい病を抱えているのではないかとか、頭のおかしい人ではないかとか誤解されることがたまにある(もしかしたら僕に自覚症状がないだけで、本当はそうなのかも知れないが)。実際に通っている立場から見ると別にそんなことはないのだが、未だに精神科に関するイメージは「何か怖そう」といったものが多いように感じる。今回は、実際に通院してみて感じた精神科の実像と、通院する際気を付けることについて、少し述べようと思う。

 

精神科は、だいたい完全予約制である。予約は得てしてかなり埋まっていることが多いので(僕がこれまで通院したor通院を考えた病院はどこも予約はギッチリ埋まっていた)、もし通院を決意したならなるべく早めに予約の電話を入れるのが大事だ。人気の病院になると、下手すると1カ月くらい待たされたりすることもある。

待合室の雰囲気は、意外とのんびりしている。僕も通院する前は、待合室には奇行を繰り返す人がいたりするのではないかと戦々恐々としていたが、通院して半年以上になる今でもそんな人は見たことがない(無論僕がまだ見たことがないだけで、そういう人がいないとは言い切れない。これはあくまで僕の経験上の話である)。内科や耳鼻科の待合室と、大した変わりはないように感じた。

待ち時間は、予約状況や病院にもよるが、わりと待たされる方だと思う。一人一人の診察時間が長いためであろう。初診の時は問診票を書いていたら時間が潰れるが、2回目以降の診察では待っている時間暇なので、本を持っていくかスマホでも弄っていればいいのではないだろうか。

診察は、特に初診だと色々訊かれる(当たり前だ)。初診の場合は現在の症状・悩んでいること、いつ頃から発症したか、原因として考えられることなどが主な質問になろう。まあこういうことを訊かれるのは精神科に限った話ではない。2回目以降の診察なら、前回からの変化、薬の効き具合などについて訊かれる。これも精神科に限った質問ではないだろう。

最後に。現代日本では医療費は3割負担とはいえ、何度も通院しているとその金額は決して馬鹿にはならない。そこで、長期の通院が予想される場合は自立支援医療の申請を行うのがいいだろう。詳しくは通院先の窓口などで聞くのが一番だろうが、精神疾患てんかんを含む)の治療のため、継続的通院が必要な人に関して、申請すれば医療費が1割負担になるという制度である。ちなみに期限は1年で、1年ごとに更新が必要となる。

この文章が、これから精神科通院を考えているという人の一助になれば、望外の喜びである。

書評『社会人大学人見知り学部卒業見込』

今回紹介する本は、お笑いコンビ「オードリー」若林正恭さんのエッセイ『社会人大学人見知り学部卒業見込』だ。雑誌『ダ・ヴィンチ』で連載されていたコラムをまとめたもので、高校時代に初めて読んで以来、僕の愛読書の一つになっている。因みに、半年間の休載を挟んで、現在は『どいてもらっていいですか?』に題を変更し連載が再開されている。以下ネタバレを含むので注意。

 

 

作者の若林さんはお笑い芸人。2008年M1グランプリでの準優勝を契機に、現在様々なメディアで活躍しているのは誰もが知るところだ。そんな彼だが、売れない20代を社会とほとんど関わることなく過ごしたために、ブレイク当初は自身と世間との常識の差にかなり戸惑ったという。例を挙げてみる。以下本文抜粋。

 

「ぼくにとって相方の生活の仕方はそんなにおかしいものでもなかった。(中略)相方は赤ちゃんのおしりふきで体を拭いていて、ぼくはタオルで拭いていた。相方はコインシャワーまでシャンプーしながら歩いて、ぼくはコインシャワーの洗面台で髪を泡立ててからシャワー室に入るぐらいの差であった。(中略)だけど、度重なる相方の家のロケで、風呂なしの家に住んで体を拭いている生活がテレビで扱われるほどには(社会では)珍しい部類に入るってことを知った。」

 

他にも例を挙げていくと色々あるが、冗長になるので止めておく。本書は、若林さんがそんな世間と自身の様々なギャップに戸惑いながら、徐々に社会人としての振る舞いや考え方を身に着けていくという内容である。どの章も、思わずクスッとしてしまうような数々のエピソードが紹介されており、中でも僕がとりわけ好きなのが「自意識過剰」の章と「ネガティブモンスター」の章である。

まずは「自意識過剰」から見てみる。幾つかの自意識過剰エピソードがはじめに披露されているのだが、同じく自意識過剰な人間の僕には非常に共感でき、高校時代はこの章を何度も読んだ。美容院で髪型を事細かに注文するのが恥ずかしい。スタバで「トール」だの「グランデ」だのサイズを言うのが恥ずかしい。「パスタ」と言うのが恥ずかしくて、昼に何を食べたか訊かれたとき「何も食べてない」と言った。etc……。

そして、極め付けがこの一言。「誰もぼくのことなんか見ていない。それはわかっているのだ。だがしかし、だ。ぼくなのだ。ぼくが!見ているのだ!」

世間の人たちが見れば、なんて自意識過剰なんだと思うかもしれない。しかし僕にはこの気持ちが痛いほど分かる。自分の言動が周囲にどう思われているか気にしすぎるあまり、自分でも振り返ってみると了解に苦しむようなことをしてしまう。自意識が強すぎるが故の哀愁みたいなものが、上の一文からは滲み出ているように感じた。

 

次に、「ネガティブモンスター」の章。今でこそ売れっ子芸人の若林さんだが、20代の頃は全く売れず、自分の将来について悩み続ける毎日だったという。ネガティブと向き合い続けた彼なりの「ネガティブモンスター」との付き合い方が、この章には書いてある。彼はこう言う。「ネガティブを潰すのはポジティブではない。没頭だ。」

彼曰く、ネガティブな感情にとらわれそうになった時は、何かに没頭するのがいいのだそうだ。一つの物事に集中することでネガティブを体内から追い出すことが肝要とのこと。高校時代、ネガティブに常に思考を支配されていた僕にとっては、これを初めて読んだときの衝撃には凄まじいものがあった。今でもネガティブに支配されることはままあるが、以前ほど懊悩の限りを尽くすようなことはなくなった。ネガティブに苛まれそうになったら、趣味に没頭するようにしたからだ。皆さんも是非お試しあれ。

最後に「ネガティブモンスター」の章から、僕の一番好きな文章を引用して終わりにする。

「これまでぼくは起きもしないことを想像して恐怖し、目の前の楽しさや没頭を疎かにしてきたのではないか?深夜、部屋の隅で悩んでいる過去の自分に言ってやりたい。そのネガティブの穴の底に答えがあると思ってんだろうけど、20年調査した結果、それただの穴だよ。」

強烈な自意識を秘めながら、社会への参加方法を探し続けたエッセイ。是非一度手に取って読んでみて下さいね。

私見・死について

言うまでもないことだが、人間は皆いつかは死ぬ。人間が生命である以上、死というものを避けて通ることはできない。死はいつか必ずやって来る、そしてそれが一体いつなのかは誰にも分からない。数十年先かも知れないし、もしかしたら明日かも知れない。これは考えれば考えるほど恐ろしいことだ。自分は一体いつ死ぬのだろうと考えて、恐怖で夜も眠れなくなるなんていう体験は、誰しも一度はあるだろう(無論私にもある)。人は、親しい者の死に接すれば悲しいし、自らの死を思えば恐怖にかられる。死という、人生の避けられない「終焉」に対して、我々はどのように向き合えばよいのだろうか。そんな、ともすれば重く感じられるテーマについて、乏しいながらも私見を述べてみたいと思う。

 

死というのは、人間存在の永久な終焉であり消滅である。私が死んだら、私は永遠にこの世界と再び関わることはないし、世界も二度と私の心身に対して何らの影響を及ぼすことはできなくなる。そして、死んだ後はどうなるのだろうか?宗教に於いては、死後の世界(例えば極楽や地獄といった)なるものがあると信じられているが、所詮は想像に過ぎず、その世界を実際に見た人間は一人もいない。では、死の向こうにあるのは絶対的な無なのかというと、これも違う気がする。なぜなら、我々は近しい人が死んだとき、彼或いは彼女がかわいそうだ、悲しいと思うからだ。もし死んだら全てが無に帰するとしたら、無を可哀想に思っているということになり、これはおかしい。つまり、少なくとも我々は、死の向こうに「何らかの存在としての死者」を認めていると言えよう。

では、この「何らかの存在」とは何だろうか。霊魂だとか何だとか、それらしい言葉は幾らでもあるが、それらの存在を認めうる物的証拠がない以上、これらを「何らかの存在」として認めることは難しい。散々言葉を並べたが、結局ここの部分ばかりは死んでみないと分からないのだろうと思う。

これからの我々に出来るのは、時々、たまにでいいから、死というものを心のなかに描きながら生きていくこと。あまり考えても楽しくはないだろうが、自分の人生に於いては避けられないものごとである以上、考えてみる価値はあるはずだ。ペットが死んだとき、身近な人が亡くなったとき、納得とまではいかないでも心に死を受け止めて、今まで生きて、そして死んでいった沢山の人々の死の上に自らが立っていることをよく感じて、今日1日を生きるのだ。そして、やがて必ず訪れる自らの死へと思いを馳せて、己の心身がいずれ永久に宇宙の隅から隅までに少しも残らず消えてしまうということをよく噛み締めて、死に向き合い、悩み、恐れ、そして死を見つめ考え続けていきたい。

 

なんだか自分でも何が言いたいのかよく分からなくなってしまって情けない限りですが、このブログを読んでくださった読者諸賢の心の隅にでも、水滴の一瞬のきらめきのような潤いを与えることが出来たならば、これほど喜ばしいことはありません。長々と拙文、失礼致しました。読んでくださった皆様、本当にありがとう。

書評『春の雪』

記念すべき書評1冊目は、三島由紀夫の長編四部作『豊饒の海』の第一部、『春の雪』である。以下ネタバレを含むので注意。

 

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

春の雪―豊饒の海・第一巻 (新潮文庫)

 

時は大正。 主人公の松枝清顕は、明治維新の功臣を祖父に持つ侯爵家の嫡子。そしてヒロインの綾倉聡子も、伯爵家の深窓の令嬢。二人とも、所謂「名家」のお坊ちゃまお嬢様だ。この二人の悲恋をスキャンダラスに描き切ったのが本作である。正直なところ、題材としてはかなりありきたりなものだと言えよう。しかし、そんなありきたりな題材も三島にかかれば、ここまでの美しい物語へと昇華される。

とりたてて私が好きなのは、主人公の清顕である。この清顕という少年は、基本的にかなりめんどくさい。そして思春期特有の女性への悩ましさに溢れている。何しろ、恋い焦がれている聡子に自分が女慣れしていない童貞だと馬鹿にされるのが嫌で、わざわざ「俺はもう経験済みだ!」なんていう嘘を書いた手紙を聡子宛に送りつけたりするのだ。他にも、松枝家にやってきた留学生に「内心では『へえ?君はその年で、一人も恋人がいないのかい?』と馬鹿にされているんじゃないか?」と被害妄想にかられたり、更にはその留学生へ「きっと近いうちに彼女を紹介するよ」と彼女なんかいないのに虚栄心からそんなことを言ったりと、序盤はまあ読んでて苦笑いしてしまうような言動が目立つ。聡子のことが好きなのに、うまくアプローチできないもどかしさ。聡子に弄ばれてばかりの自分と、己が心を波立たせる聡子への苛立ち……。アンビバレントな感情に苛まれる少年を三島は見事に描写している。

そして物語はクライマックス。綾倉家に宮家との縁談話が舞い込んでくる。当時はまだ宮家の威光は圧倒的な時代。断ることなど出来はしないのだ。清顕と聡子の恋路は、こうして破滅が運命付けられてしまう。

ラストシーン。病に冒されながらも清顕は、出家を決意した聡子に一目会おうと奈良まで向かう。しかし、逢瀬を果たせぬまま、失意のうちに友人の本多に連れられ東京へ戻る。清顕の最後の台詞。

「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」

豊饒の海』の主題とされた夢と転生、その念が滲む言葉をラストに持ってくるのが何ともニクい。三島文学という大海原を心行くまで旅したくなる、そんな一冊の紹介でした。

最初の記事、及びブログ開設に至った経緯とこのブログの内容について。

ブログを始めた。物ぐさな人間である私が果たして定期的に更新を続けることができるのかという点は甚だ疑問だが、とにかくやれるだけやってみたいと思う。

 

抑々ブログ開設に至った経緯だが、これは至極単純な話である。私が大学で所属しているサークルの友人に勧められたからだ。更新を怠っては、せっかく開設を勧めてくれた彼の私に対する信用にも関わろう。そう考えると、身が引き締まる思いだ。

 

ブログの内容について。主に書評、日常のあれこれ、諸々の考えたことなどを纏める場になろうと思われる。特に書評は力を入れていきたい所存である。

 

拙い文章の羅列にはなってしまうだろうが、どうぞお許し願いたい。これからよろしく。