流し読み

俺にまつわるエトセトラ

青空

あれは、一度目のフリーター時代の、夏のことである。
いい加減に正社員として就職しようと重い腰を上げ、いくつかの求人に応募するも当然ながら書類落ちし、落ち込んでいたある日だった。
幸運にも、とある清掃会社の面接に合格し、体験入社をした上で入るかどうか決めてほしいと言われ、せっかくならと行かせてもらった。
くだんの会社は、家から電車で数十分のところにあった。地下鉄にゆられて、眠い目をこすりつつ向かった。途中のコンビニで朝ごはんのお握りを食べ、緊張と暑さで出てくる脂汗を拭いながら、雑居ビルの一角にある事務所へと、遅いエレベーターで上がっていった。

挨拶をすませて、作業着に着替える。ワークマンで売っていそうな錆浅葱の色をしたツナギで、そういう服を着るのが初めての私はたいそう便利な衣服があるものだと感心したのを覚えている。
先輩職員の運転する車に乗り込み、今日の現場だというマンションへ向かった。ちょうど時期は夏の盛りで、開けた窓からアブラゼミの声がうるさく聞こえてくる。街路樹の緑が目に眩しい。車内には私のほかに3人の社員がおり、「なんでうちを受けようと思ったの」といった通り一遍の質問をされた後は、特に何かを訊かれることもなかった。

現場のマンションに着く。なかなか立派な建物で、一体どんなお金持ちが住んでいるのかなあ、等と阿呆なことを考えた。そして、それと比べてお金も職もなく、人生の最底辺を生きているような自分の馬鹿さ加減に溜息をついた。
道具を持ち、エレベーターで最上階へ行く。マンションの欄干から眺める景色は、東京の空とは思えぬ広さだ。都合6年半ほど東京で暮らしたが、あんなに空が広かったのはこの時と東京競馬場に行ったときくらいだったと思う。抜けるような夏の青空から風がびょうびょうと吹き付け、ツナギがバタバタ揺れる。眼下に広がる武蔵野台地は、盛夏の日差しにぼんやりと霞んで見えた。
一番ベテランとおぼしき先輩が、水圧で掃除する道具を慣れた手つきで準備する。BSの通販でたまに見る、ケルヒャーの強化版みたいな見た目だ。噴射すると、黒ずんだ汚れが吹き飛ばされ、クリーム色の壁が流水に輝く。水しぶきが風に乗って、思ったほど体感気温は暑くない。

モップを持ち、一番若い社員と二人で廊下を拭いていく。腰にかなり来る作業だ。淡々と拭いていると、ふと社員に話しかけられた。
「この仕事、どう思います?」
無論、私はまだ体験入社の身であるから、悪く言えるはずもない。だが、仕事もないくせにプライドだけは一丁前の私は、素直に「楽しいですね」などと返答することはできなかった。結局口から出たのは、
「まだ入社したわけではないので、よくわからないですが、精一杯やるだけです」
などという、お茶を濁しているのが見え見えのセリフだった。
向こうも何となく私が希望してこの会社を受けたわけではないことに勘付いたようで、
「まあ、そう言うしかないですよね…こんな仕事やりたい人いないですよ」
と汗をぬぐいながら、疲れを湛えた瞳で青空を見上げて呟いた。

この期に及んで極めて恥ずかしいことだが、彼のそのような諦観的な態度への軽蔑を、その時全く抱かなかったと言えば噓になる。彼のようにはなるまいと思いつつも、一方で自分の将来を見ているような気がして、二人でいるのが無性に怖くなり、
「下の階を拭いてきます。分担したほうが早く終わりますよね」
と言い、非常階段を逃げるように小走りに降りた。夏の日差しに、吹き付けられた水しぶきが輝く。廊下に小さな虹がかかった。

黙々と廊下をモップがけする。うなじに日差しが照りつけてジリジリと痛む。ああ、日焼け止めを塗ってくるんだったな、なんて考える。尻ポケットに突っ込んだ雑巾が冷たい。床をこする。
いつの間にか、ツナギが黒い汚れにまみれていた。存外、時間が経っていたようだ。先輩職員の呼ぶ声が聞こえ、廊下の向こうにある階段の踊り場へ走る。
今度は二手に分かれて、共用部の部屋を掃除する。会議やら、催し物やらをしている部屋らしく、けっこう大きい。何だか、ホテルのレストランみたいな見た目だ。私は、眼鏡をかけたおじさんの社員と二人になり、モップをかけていく。クーラーが効いた部屋で、ほっと一息。

モップをかけ終わり、おじさんとお茶を飲みながら少し話した。
「君は、大学を出ているの?」
「一応出てますよ」
「どこ大?」
「〇〇大です」
おじさんは目を見開いた。
「すごいとこ出てるじゃないか、何でうちなんか入ろうとしてるの?」
「いや、そんな大したとこじゃないですよ…」
おじさんは、にこやかな表情をしていた。だが、眼鏡の奥の瞳は、動物園のカバのような、どこか悲しげで、疲れの滲む、澄んだ色彩を湛えていた。あの、疲れと透明感を同時に湛えた瞳が、今でも忘れられない。
「悪いこと言わないから、うちはやめときな。せっかく親御さんにいい大学を出させてもらったんだから、もっとふさわしい仕事が君にはあるよ。俺みたいな、学も技術も資格もない馬鹿がやる仕事だから、これは」
「いや、そんな…」
かける言葉は、思いつかなかった。否定しようにも、俺はおじさんのことを名前くらいしか知らないのだから、その否定はどう転んだって本当ではなくなってしまう。かといって、肯定するのはあまりにも失礼だ。
締め切った部屋には、時計の秒針の音だけが響いていた。水にぬれたフローリングの床が、夏の日差しに鈍く光る。窓ごしの澄み切った青空に、湧き上がる白い雲。どんな悲しみも、あそこまでは届かないと歌っていたのは誰だっただろうか。

その後、私は結局その会社には入らなかった。あのカバのような澄んだ目をしたおじさんにも、無論それから一度も会っていない。
うなじを照らす、濃い夏の日差しを見上げるたびに、あの青空がやけにきれいだった1日を今でも思い出す。

サツキマスのいた川

サツキマスのいた川』という絵本を、皆さんは読んだことがあるだろうか。

昔、俺が通っていた小学校の図書室に、この本は置いてあった。絵本というより、正確には写真集かもしれない。初版は1991年、作者は田口茂男さんである。
初めて読んだのは、もう15年以上前のことだと思う。だが、一度読んだら忘れられない、魅力的で、そして物悲しい本だ。
主人公の「ぼく」は、亡くなった祖父の形見として、20年前に発行された鉄道の切符、手書きの地図二枚、そして「この手紙はかならず旅から帰ったあとで読むこと」と書かれた封筒をもらう。やがて夏休みが来て、「ぼく」は切符の行き先に書かれた、長良川の流れる岐阜県郡上八幡を目指して旅に出る。そこから、一夏の不思議な冒険が始まるのだ。
美しい長良川、水遊びを楽しむ子供たち、そして力強く泳ぎ回るサツキマスの群れ…。日本の原風景を色濃く残す郡上八幡の町に「ぼく」はすっかり魅せられ、宝物のような夏の日々を過ごす。しかし、旅から帰った「ぼく」が祖父の手紙を読んでみると─────。結末は語らないが、あえてヒントを出すならば、この本のタイトルは『サツキマスの"いた"川』だ、ということだろう。

俺自身も長良川郡上八幡へ行ったことがある。風光明媚な水の都で、長良川は美しかった。だが、昔を知っている方からすれば、今の長良川は見られたものではないのかもしれない。そして、そんな川ですら己の身で体験することもなく生活する子供たちが、日本中に沢山いる。無理もないことだと思うし、今更自然に帰るべきだとも思わない。ただ、そこはかとない悲しみを覚えるだけだ。
俺の住む街にも、川がある。秋になると、鮭が海から遡上してくる。それを川へ見に行くのが、毎年の楽しみだ。ずっとこんな秋が続いてほしいと願っているが、一方で今の便利な暮らしが環境を汚すことを知りつつ、それを今更やめられない。

似たような話の絵本に、『ワンプのほし』がある。

ワンプたちが平和に暮らす星に、ある日突然やってきた「バッチィ人」なる宇宙人が、便利だけれど星を汚し尽くす暮らしを続け、最後には掃除もせずにワンプの星を出て行ってしまう、という話だ。バッチィ人は最後にはいなくなるが、ワンプの星が元に戻ることは、もう二度とない。

この記事を書くために、久しぶりに『サツキマスのいた川』を読んだ。31年前に出された本とは思えないほど、写真は美しく、そして、結末はやっぱり物悲しかった。

初恋

小学校へ入学した頃のことでした。
たまたま隣の席になった、ユミちゃんという女の子がいました。ユミちゃんはいつもニコニコとしていて、愛嬌のある女の子でした。
ユミちゃんは僕に名前を尋ね、そして「友達になろう」と言いました。僕は当時から、背は高く体は大きいけれど、とても怖がりで人見知りな子供だったので、ただうんと頷くことしかできませんでした。それでも彼女はニコニコ笑って「ありがとう」と言いました。幼稚園時代のことは昔すぎて覚えていないので、今の僕の記憶に残っている一番最初の友達です。
ユミちゃんは勉強がよくでき、運動も得意でした。皆さんも覚えがあるでしょう、小学生の時にクラスに必ず1人はいた、利発で優しい女の子です。彼女が、初夏のグラウンドをクラスメートと駆けてゆく後ろ姿の、日焼けした手足が風車のようにくるくる回る光景を、僕は教室からぼんやり眺めていることが多かったように思います。

僕は勉強はよくできましたが、運動もお喋りも苦手で、ガリ勉だとよくいじめられていました。生まれつき色白だったので、そのことをからかって「お化けだお化けだ」といじめられたこともはっきり覚えています。そのうえ、僕の家は、地域の小さなコミュニティの中ではかなりお金持ちなほうでした。家がお金持ちで、勉強はできるが気弱で運動はからっきしな少年が、いかにいじめられやすい要素を沢山持っているか、皆さんも経験上わかるのではないでしょうか。ユミちゃんは、僕がいじめられているのを見てもその場で助けてはくれませんでしたが(いじめっ子が怖かったのでしょう)、放課後によく慰めてくれ、一緒に遊んでくれました。
たまたまユミちゃんが教科書を忘れて、「ごめん、教科書見せて」と頼まれた時などは、僕はユミちゃんに頼りにされるのが嬉しくて、意気揚々と見せてあげました。幼心に、ユミちゃんとずっと一緒にいられたらいいのになあ、と寝る前にあれこれと妄想しては、幸福な眠りへと旅立ちました。誰しも少年期は、夢見がちなものです。まだ恋というものの意味も理解していない年頃ですが、とにかく一緒にいたいと願っていたのは覚えています。

ある日、ユミちゃんから「児童会館へ行って一緒に遊ぼう」と誘われました。もちろん僕は二つ返事で了承しました。ユミちゃんと遊ぶ時間が、当時の僕にとって一番の憩いの場だったのですから。
しかし、僕は当時、まだ児童会館へ行ったことはありませんでした。児童会館には、僕の知らない年上の子供たちが沢山いると聞いていたからです。怖がりで人見知りの僕は、とても1人で児童会館へ行くことはできませんでしたが、ユミちゃんと一緒なら大丈夫ではないかと思ったのです。
けれども、児童会館へ着いてみると、ユミちゃんは僕の知らない子供たちと元気よく話をし、遊び、僕のことなど存在すら感知していないかのようでした。無理もありません、小学1年生の彼女にとって、一番大事なのは自分の楽しい遊びですから。
僕は児童会館の、手垢で黒ずんだおもちゃや絵本が置いてある片隅に座り込み、1人で大好きな絵本をずっと読みました。普段あんなに大好きで、毎日胸を躍らせながら読んでいたはずの絵本が、その日はちっとも楽しくありませんでした。
やがて真っ赤な太陽が、西方の山のかなたへと沈みだす時刻になりました。僕の家は厳しいので、5時になるまでに帰らなければいけません。ユミちゃんと一緒に帰りたかったけれど、楽しそうに知らない子たちと遊んでいる彼女を隅っこから見ていると、そんなことを言う勇気はとても湧いてきませんでした。ユミちゃんにとって僕は大勢いる友達のうちの一人にすぎないことを自覚させられ、彼女は何も悪いことをしていないのですが、裏切られたような気がしていました。僕は恥ずかしくて寂しくて悲しくて、キラキラ光る瞳で笑い転げる子供たちみんなに笑われているような気がして、涙ぐみながら児童会館の職員さんに絵本を貸してもらったお礼を言い、1人で帰りました。泣いて帰って母に心配をかけるのが嫌だったので、涙はぐっと堪えました。

次の日から、ユミちゃんと教室でどのように接していたか、僕はよく覚えていません。やがて学年が上がるにつれて、僕にも他の友達ができ、ユミちゃんとは話さなくなりました。
中学校に入る時に引っ越し、それ以来小学校の同級生とは会っていないので、ユミちゃんが今どうしているかは全く知りません。

これが僕の初恋です。

零細IT企業物語

桜の木が花びらを散らし、春の暖かい日差しが徐々に強さを増してきた初夏、俺は会社を辞めた。僅かな期間の勤務だったが、非常に濃密な時間だった。この「濃密」というのは、もちろん悪い意味で、ということである。あらゆる悪意、例えば軽蔑、嫉妬、欺瞞、傲慢、怠惰……様々な感情が渦巻く、そこはまさに魔境だった。思い出すだけでも恐ろしく、悲しく、そして腹立たしい。そこでの奇妙な体験の数々はいまでも理解に苦しむものも多く、当たり前のことが当たり前でない異常な企業体質だった。働いていた当時はそれがどこの会社でも常識なのだろうと考えていたが、今の職場に移ってからそれがとんでもない勘違いで、社員を低賃金で長時間こき使うための方便だったと気付かされた。零細IT企業には、濁ったドブのようなヌメヌメした空気が漂っている。そして、そこに咲いているのは泥水から花を咲かせる気高く美しい蓮の花ではなく、打ち捨てられた名もなき汚れた水草たちの、悪意と諦念の花なのだ。

 

初めにおかしさを感じたのは、採用面接の時である。社長自らが面接(オンラインのものだった)をしていたのだが、まず格好が極めてラフであった。ノーネクタイで、スーツの上着も着ていない。椅子の背もたれに思い切りもたれかかり、腕を組んでいる。流石に今までそのような態度の面接官に出会ったことは無かったのだが、違和感はこれだけではなかった。
彼は面接の終わり際に、「先に言っちゃうけど、大丈夫そうだし内定だと思うよ~」などと言い出した。とにかく仕事が欲しいと思っていた当時の俺はよく考えもせずに飛び付いてしまったが、いま考えればこれもおかしな話だ。わずか数十分喋っただけの人間を、履歴書や受け答え内容を精査することもなく、あっさり内定を出す。それだけ人手が足りていないことの現れだが、そこまで頭が回る余裕は当時の俺にはなかった。他に内定も出ていなかったので、承諾書を提出し、入社と相成った。
入社してみると、それまで社会人の友達から聞いていた企業風土とは全く異なる環境が俺を待っていた。
まず、社内の空気がどんよりとして活気がない。雑居ビルの一角に事務所があったのだが、とにかく空気が濁っている。俺はこの空気、雰囲気の悪さに、内心強い猜疑心を抱いていた。しかし、先輩社員とは初対面なのだから、元気に挨拶をせねばならぬ。これから、ここの人たちに世話になるのだ。挨拶は肝心である。俺は、両親から初めて会った人にはきちんと挨拶をするようにしつけられて今まで育ってきた。
「本日からお世話になります、よろしくお願いいたします!」
「しまーす……」
なぜか、誰もこちらの目を見て挨拶をしない。皆挨拶もそこそこに、パソコンの画面とにらめっこをして、何かよくわからない文字列を猛スピードで書き込んでいる。
たぶん、彼らに悪意はない。礼儀知らずな訳でもない。単純に、俺に興味がなかったのだと思う。後々知ることになるが、この会社では新人が突然来なくなって辞めてしまうのはよくある話だった。彼らからしてみれば「この新人も何ヵ月かしたら辞めるんだろうな」程度にしか感じていなかっただろう。そしてその予感は正しかった。
働き始めてすぐ、上司との間で例の「分からないなら訊けよ!」→「自分で調べろ!」→「分からないなら訊けよ!」→「自分で調べろ!」……の無限ループが始まる。社長に相談したら、「よく分かんないけど、君は新人なんだからそういう理不尽にも黙って耐えないと。それに本当にちゃんと調べてる?笑」等と宣う。他の上司も、俺が頼んだ仕事に対して、驚くほど非協力的だ。「君に仕事を教えたり手伝ったりしても意味ないんだよね。教えるのは給料のうちに入っていないし、他の奴の仕事なんて知ったこっちゃない、会社ってのはそういうもんだろ?」というのが彼らの言い分のようだった。実際、それに近いことも何度か言われた。これが作り話ならブラックジョークで済むのだが(いや、済まないかもしれないが)、あいにく実話である。理不尽なことを要求してくる上司も上司だが、それを理不尽と感じつつほったらかしにしている社長の考え方には驚きを禁じ得なかった。当時を思い返すと、彼らも客先から理不尽とも思える案件の要求をよくされていたし、それを当たり前のように請け負って毎日23時くらいまで残業していたから、理不尽に対する感覚が鈍っていて、俺の言っていることが理解できなかったのかもしれないと考えることもある(勿論それでも許しがたい話ではあるが)。

 

ここでIT業界をよく知らない方のために、この業界の産業構造について軽く述べておく。といっても前の会社の先輩(唯一比較的良心を持っている人がいた)に教わったことと、俺が調べた内容に限った話なので、正確で広範な情報に触れたい人は他を当たってみてほしい。
基本的に、日本のIT企業はSIerSystem Integrationにerをつけた和製英語)と呼ばれるものかWeb制作会社のどちらかで、そのうち大部分を占めるSIerはいわゆるNECDELL富士通など誰でも知ってるような超大手のITゼネコンを頂点とした多重下請け構造のピラミッドを形成している。ピラミッドの頂点が案件を受注して上流工程を済ませたら、あとは下請け①(そこそこ大企業)に発注→下請け①が分割してさらに下請け②(中小企業)に発注→さらに下請け②が下請け③(零細企業)に発注、という風に、下請けへの振り分けと中抜きを繰り返し案件は細分化されて完成を目指すことになる。大手ITゼネコンの労働環境は、実際に働いたことがないのでよく知らないが、少なくとも末端の企業とは比較しようがないほど良いものだと聞く。そして、零細企業の労働環境はもはや言うまでもない。零細企業における俺のような末端の労働者は、基本的に低賃金長時間労働で、潰れるまで使い続けるのがスタンダードだ。それが一番安く済むし、潰れた若者の将来など経営者や元請けの知ったことではないのだから。
顧客は顧客で、システム開発に関しては素人であるから、「この部分をちょっとだけ変えてほしい!」という要求を後出しでしてくることもよくある。この「ちょっとだけ」が、開発する側から見ると全く「ちょっとだけ」で済んでいないことがあり、そして顧客はそれを知らない。開発する技術者側も、一から解説するのも面倒だし納期まで時間もないし、こういうよくある要求をいちいち断っていたら仕事がなくなってしまうので、説明をしない。結果、さらに労働時間は増していくし、この要求を断らなかったことによって、「後から追加でお願いしてもダイジョブなんだ!」という、自らの首を絞める前例を作っていく。そもそも、文系や高卒出身の末端の労働者が実際の工程に携わり、情報系の学科を出た優秀な理系出身者が実務ではなく大手企業で上流工程や下請けのマネジメントを行っている構造もだいぶおかしなものだと思うのだが(この文章は文系理系どちらが優れているか、などという論争の提起を意図したものではない)、それ以上におかしいのは産業全体の構造である。この話を続けると、若者の貧困やら新卒一括採用の見直しやら、いろいろな問題に繋がりがある気がしないでもないが、あまりに長くなりすぎるのでここでは止めておく。

 

前の会社で何をやっていたかを話したことはほぼなかったと思うのでそれも少し触れておく。
下請けで開発を請け負ったシステムのテストや、サーバの保守点検、webサイト制作等々、雑多に色々やっていた感じである。入社していくらも経たない新人のできることは少なかったが、社長から「これやっといて、やり方は全部調べて、教えるのは俺の仕事じゃないから」と雑な仕事の振り方をされ、次から次へと内容もやり方も分からぬまま、必死でググり&コピペの連続で仕事をこなした(教えてくれる親切な人は無論いない)。社長の方針なのかは知らないが、とにかく何でも引き受ける会社だったので、今自分が何の仕事をしているのかすらよく知らないまま、ただ黙って体を動かしていた。今の職場で役立ったスキルもあるにはあるが、それを身につけさせてもらったという感謝の念は、自分でも笑ってしまうほどに全くない。会社の誰かに教わって習得した部分も多少あるが、それでも感謝の気持ちは全くない。これは誰しもある経験だと思うが、誰かに受けた恩を思い出せば思い出すほど、その人に感謝する気持ちにならないということが人生にはままあるように思う。こういう話は俺の好きな分野だが、今回の趣旨からは外れるので続きは別の機会に。

会社を辞めることが決まった日は、不思議な虚脱感しかなかった。嬉しさがもっと湧いてくるかと思ったが、全くなかったのははっきり覚えている。
退勤して、東京の夜空を眺める。折しも新型コロナウイルスの爆発的な感染拡大が起きた時期であり、飲食店は退勤時間にはもう閉まっていた。家についても、何か作る元気もない。コンビニで買ったお握りを食べて、転職サイトでいくつか求人に応募する。煙草を何本も吸って、明け方まで布団の中で眠ったふりをする。自業自得といえばそれまでだし、自分でもそう感じる。大学時代になまけてばかりいたツケが一気に来たのだろう。いうなれば、きついお灸を据えられたというわけだ。そう思っておくのが一番いいように思う。いい記憶など全くない日々だったが、そこに気づかせてもらえたことだけは良かったかもしれない。
今の職場に採用されてから、前の会社の話になり、上司にここまで書いてきたような話をほんの少しだけした。上司は驚き、「本当にそんなところがあるんだねえ……」と、信じられないといった表情で漏らしていた。
俺も信じられなかった。だが、そういう会社は、確かに実在している。

 

2022年1月10日 雪の降る夜に記す

野球場探訪記Vol.1「札幌市円山球場」

俺が過去に訪れた球場、そしてこれから訪れる球場の記録を残しておくことにした。ということで、1回目は札幌市円山球場である。

 

札幌市円山球場は、札幌市中央区宮ヶ丘にある野球場である。札幌市民には「円山球場」の愛称で親しまれている。

俺が初めてここを訪れたのは、高校1年生の時だ。そのときのことは、わりとよく覚えている。高校の講習をサボって野球を見に行くことにしたのはいいのだが、あいにくファイターズは遠征中で札幌ドームではその日試合がなかったのだ。それに当時は高校生、数千円するプロ野球の観戦チケットはそうそう気軽に買えるものではなかった。そこで思い付く。そうだ、円山球場高校野球をやっていたはずだ!

というわけで地下鉄東西線に乗り、円山公園駅で降りる。円山球場は、駅から動物園方向に上り坂を15分程度歩く。高校生だった自分はあまり堪えなかったが、お年寄りはみんなしんどそうだった。JRバスを使えば近いのだが、料金をケチりたい卑しさを「運動になるから」と誤魔化していたのを覚えている。

さて、左手に動物園を見ながら歩けば、球場に到着だ。両翼98m、センター117mのやや狭いつくりである(横浜スタジアムとほぼ同じ大きさ)。しかし、昭和10年に開かれた歴史あるこの球場は、その狭さにこそ年月を重ねてきた味わいや趣があると俺は思う。

チケット代を払う。当時、高校生は学生証を見せれば100円でその日行われる試合全てを観戦可能だった。これは金なし高校生には大変有難い価格設定で、100円で野球が4試合も見られるというのは至福極まりない話だということはお分かりいただけると思う。俺はいつも御機嫌で学生証と100円玉を当番校の野球部員の方へ出していた。

階段を登る。いつも思うのだが、野球場へ来て一番ワクワクする瞬間は、この階段を登ってフィールドが見えてくるときではあるまいか。これは野球観戦好きの方々にぜひ訊いてみたい。俺はいつも階段を登り切ってフィールドが見えるとゾワゾワっと鳥肌が立つのだ。

さあ、球場の風景が見えてきた。選手たちの掛け声、ブラスバンドの演奏、そして土埃の匂いが強くなっていく。暗い通路を抜けて、視界が一気に光に包まれる。

 

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※写真は2016年に撮影したもの。以下も同様。

本当は毎回朝イチで並んで銀傘の下の席を取りたいのだが、いつもそう上手くはいかない。南北海道大会決勝戦にでもならない限りはそうそう座る席には困らないが、それでも銀傘の下は流石にいつも埋まる。仕方なしに、真夏の炎天下にうちわとフェイスタオルを持って野ざらしの席に陣取る。

外野スタンドには、地方球場あるあるの芝生が広がり、バックの山々と相まって非常に牧歌的な風景を見せてくれる。レフトスタンド奥に木が生えているのも特徴的で何とも面白い。
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また、この円山球場、食堂のカレーライスがめちゃくちゃに美味しい。高校時代、観戦に来たらどんなに暑い日でも必ずカレーを食べた。プラスチックの楕円形の容器に入った、あの昔ながらのカレーライスが本当に懐かしく、思い出すとまた食べたくなってしまう。数年前に食堂の方の体力的なことでやめてしまい、その後別の事業者によって再開したと仄聞したのだが、今、あの飛び切り美味しかったカレーライスはどうなっているのだろうか……。

 

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試合終了、一礼。ナイスゲームをありがとうございました。

 

円山球場は、夏の選手権の南北海道大会およびその札幌支部予選、春期・秋季北海道大会、札幌六大学野球リーグ戦等々、様々な道内の野球公式戦に用いられる。札幌の野球好きにとっては札幌ドームと並んで欠かせない場所(ドームはもうすぐ用済みになるが)である。

ここを舞台に、駒苫田中将大投手(現楽天)と北照植村祐介投手(元日本ハム)の白熱した投げ合いや、東海大四の西嶋亮太投手(元JR北海道野球部)のスローカーブや、他にも数多のドラマチックなシーンがあったのだ。

俺にとって極めて思い出深い場所であり、このご時世が過ぎ去って、また野球を心置きなく見られるようになったら、必ず行きたい球場だ。近い将来、また野球が思い切り楽しめることを願って……。

実録!恐怖体験「コロナ禍での転職活動」

先日、ようやく新しい仕事が決まり転職活動が終わった。転職活動は新卒の就活とは訳が違うと前々から聞いてはいたものの、コロナ禍の影響による転職市場のかつてない不況もあり、いざやってみると想像をはるかに越えるハードさで、精神と貯金を恐ろしい勢いで削られた。経験としてマイナスにはならないだろうが、いま振り返ってみても、一億円積まれても二度とやりたくないという感想しかない。間違いなく俺の人生で一番「お前なんか必要ない」と言われ続けた5ヶ月間の地獄を振り返り、二度とあのような状況に陥らないよう自分を戒めるためにこれを書き残す。

 

1.転職活動開始~仕事探しを舐めた馬鹿野郎を待つ結果とは~

前職を辞めたのは今年の春先の話だが、諸々思うところがあり在籍時から新しい仕事を探し始めていた。しかし中々見つからず、そうこうするうちに色々な行き違いや事情があり会社を辞めることになった。辞めた直後は「これでゆっくり転職活動に集中できるな~」等と馬鹿なことを考えていた。これが地獄への入り口だとも気付かずに……。

とりあえず志望動機を作りやすく、かつ待遇の良い会社を、身の程もわきまえずに受けまくり、当然ながら落ちまくる。これがもう、笑ってしまうほどに落ちまくった(具体的な数字を出すと、最終的に俺は100社ほどエントリーしているがほぼ全て落ちた)。考えてみれば当たり前の話で、不況の転職市場では様々なスキルや経験を持った即戦力以外に用はないのだ。突出して優れた経験やスキルがあるわけでもなく、かといって大して自己PRや志望動機を作り込むわけでもなく、雑な内容の書類を送り付けて受かると思っていた当時の俺はとんでもない馬鹿野郎だ。応募する企業に対しても失礼である。

そして、さすがにまずいと感じた俺は転職エージェントに登録し、本格的に転職活動へ取り組み、より恐ろしい地獄の深淵へ足を踏み入れることになる。

 

2.仕事が決まらない!~焦りと恐怖、そして虚無~

転職活動を開始して3ヶ月、エージェントに書類の添削などをしてもらったこともあり、多少なりとも面接を受ける機会をもらえるようになった(と言っても、大多数の企業は書類で落とされた)。しかしここで、またしても俺は地獄を味わう。

面接に通らない。とにかく通らない。エージェントを通じて落ちた理由としてよく言われたのが「誠実な人柄は伝わったが、やる気を感じなかった」というもので、オブラートに包まず言えば「陰気で暗く、元気のない見た目、喋り方で印象が悪いから」である。

無論、俺もただ漫然と何の改善もせずに面接を受けていた訳ではない。面接での笑顔の練習をしたり、背筋を伸ばして顔を明るく見せようとしたり、挙げ句の果てには明るい印象に見えるよう化粧をしてみたり……。しかしこれらは小手先の誤魔化しで、本番ではどうにもうまくコミュニケーションを取ることができなかった。こういうところが俺の良くない癖である。初対面だと怯えて、びくびくしながら喋ってしまうのだ(後々これは場数を踏み失敗を繰り返すことで改善されていくが……)。

そんなこんなを繰り広げている中、友人と電話なんかをしていると、仕事の話や結婚の話、将来設計や投資の話等々、いかにも大人な話題ばかりで、ついていけない自分が情けなく、とても恥ずかしかった。自虐的なことを言って友人を笑わせてもどこか苦しく、気を遣って俺でもついていける話題を提示してくれる友人にはさらに申し訳なくて、あんなに自分を恥じたことはないと思う。20代半ばの無職に堂々としている権利などないのだ。俺は焦り、恐れた。このまま一生無職のままで、親に心配と迷惑をかけ続け金も家族も友人も持てずに生きていくのか?老いて働けなくなった時はどうなる?俺の人生は終わってしまったのか?あまりの恐ろしさに感覚が麻痺し、だんだん何も感じなくなっていく自分、今の状態に慣れてきている自分が、一番、たまらなく怖かった。

この頃、ダメ元で公務員試験にも幾つか出願している。しかし、こんな状況で試験勉強など捗るわけがなく、結果ノー勉で受験することになったのは言うまでもない。

 

3.面接対策は念入りに~生きた心地のしない日々~

初夏に入っても相変わらず落ちまくり、仕事は一向に決まらない。しかし一方で、嬉しい誤算もあった。

記念受験のつもりで出願し、1秒も勉強しないまま受けた公務員の筆記試験にパスしたのである(2つ受験してどちらもパスした)。完全に落ちたと思っていたため、結果をチェックしたのが選考が早い方の二次試験の1週間前で、目玉が飛び出るほどびっくりした。すぐに飛行機で会場へ飛び、二次試験を受けた。しかし、面接の手応え的に「これは駄目だな」感が強く、そして案の定落ちた。面接対策もそれなりに練って臨んだだけにかなりショックだったが、済んだことはもう切り替えるしかない。もう一つの方の面接対策に取り掛かった。

何でも、面接が3回だか4回だかあるらしく、初めて選考フローを見たときはその多さにぶったまげた。しかし、もう四の五の言っていられる状況ではない。やるしかないのだ。

それからは、多分人生で一番念入りに面接対策をした。俺は話が長くなる癖があるようなので、「簡潔に、具体的に、結論を最初に」を心がけ、友人にアドバイスをもらい、回答を練った。

これが幸いしたのか、その時同時に受けていた企業の一次面接にも通り、二次の案内も来ていた。場数を踏んで慣れることで、ビビってうまく話せない悪癖が多少改善されたのかもしれない。

回答を入念に準備したことが良かったようで、面接ではそれなりに上手く喋れた。具体的な材料を用意して、それに突っ込まれてもすぐ答えられたのが良かったのかもしれない。結果、やっとのことで内定をいただけた。結果の連絡があるまでは、本当に生きた心地がせず、朝から晩まで家の中を、動物園の熊のようにウロウロ歩き回っていたのを覚えている。両親に伝えると俺よりだいぶ喜んでいて、思わず少し笑ってしまった。

馬鹿息子を見守ってくれた両親、助けてくれた友人には心から感謝している。ありがとうございました。

 

4.転職活動後記

転職活動を終えた今になって思うのは、まず時期が悪すぎたということである。

2020年春先から始まった新型コロナウイルス感染症の拡大に伴い、日本の就活市場は売り手市場から買い手市場へと変貌したと日経新聞か何かで読んだ。俺は経済には詳しくないが、それでも何となく想像はつく事態だ。人や物の移動がなくなり、それによって消費が鈍感し、雇用がなくなったとかそんな感じなのだろう。

言うまでもなく、不況下での転職は苦しい。ましてや、この情勢下ではことのほか苦しい。大した経験やスキルのない、俺のような人材など掃いて捨てるほどいる。企業もそんな人材を雇う余裕はない。この時期に転職活動をするのは、突出した資格、経験、スキルなどがない限り、相当な長期戦を覚悟することになるのは間違いない。

そして次に、これが最も思うことだが、転職活動をするなら会社を辞めずにやることが肝要だということだ。俺は会社を辞めて仕事を探したが、交通費やら履歴書代やらスーツのクリーニング代やらで金はすぐ無くなった。特に交通費は意外と馬鹿にならない。飛行機のチケットの高いこと高いこと……。収入のない状態が何ヵ月も続くと、本当に発狂しそうになる。銀行の預金残高をチェックするたびに胃が痛くなるのはもう御免だ。

俺は様々な幸運により新たな仕事を見つけられたが、少しのすれ違いで今も青白い顔で履歴書を書いていた可能性はある。そして、同年代の友人たちが家庭を築き、人生を豊かなものにしていくのをただ眺めるだけの日々を送っていたかもしれない。これは本当に恐ろしいことで、今になっても不合格の連絡が来る夢や、まわりの人々にどんどん置いていかれる夢を見て飛び起きることがある。いや、実際大幅に置いていかれているのだが……。

考えてみれば、転職活動を始めたばかりの頃の俺は、自分を過大評価していたように思う。社会には俺のような人間など星の数ほど沢山いて、いくらでも代えがきくのだ。それに気付けず、この不況でも自分なら大丈夫だ、何とかなるなどと寝ぼけたことを抜かしていた。仕事探しを始めてすぐそれに気付き、「焦る」ことが出来たのが、不幸中の幸いだったかもしれない。焦っていなかったら、今頃まだ無職のままだっただろう。

転職活動は、自分、ひいては人間というものの性を見つめ直す機会になったことは間違いないし、根性や精神力がついたという側面はあるかもしれない。どのみち、俺にはいつかこういう泥水を啜るような経験が必要だったと思うようにしている。そうでないと、今でも恐ろしさに身震いがしてくるのだ。

これを読んだあなたが、もし転職を考えているならば、コロナが終息して機が熟すのを待った方がいいと俺は思う。しかしそれでも、どうしても転職したいならば、会社の人には内緒にして、コツコツ地道に、長期戦を覚悟して取り組むしかない。会社の人に転職を希望しているのがバレると色々面倒なことになりうるので、言わないことを俺はオススメする。

今月限りで長かった東京暮らしも終わりだ。寂しさは拭いがたいが、新天地で明るく穏やかな未来が待っていると信じたい。高層ビルの間に沈む東京の夕日を見つめて溜息をつくことができるのも、あと半月だけだ。

 

2021年9月12日 引っ越しの準備をしながら……